重賞名馬ストーリー

重賞名馬ストーリー vol.06

無敵を誇った三冠馬ハツシバオー ~東京ダービー~

 「今こうして競馬で飯が食えているのはハツシバオーのおかげ。この馬がいたから、その後多くの名馬に騎乗するチャンスを得ることができた。馬の力を信じることを教えてくれたかけがえのない馬」。

 宮浦正行調教師にとってハツシバオーは最高無上な存在。昭和53年。この頃は重賞に勝ちはじめたばかりの25歳、売り出し中のジョッキーだった。「新馬戦から乗っていた山口くんが怪我をして4戦目から依頼を受けた。最初調教で跨ったときはデカくて、硬くて、ドタドタしていたんでこれで走るのかな?って半信半疑。しかし、ゲート開くと力が違ってた。ピューじゃなくてロケットみたいにゴーンと飛び出す感じ。馬力が違う。なんだこりゃと驚いた」というのが第一印象だった。

 「京浜盃勝ったあとかな。このあと宮浦じゃ信用できない、替えてほしいって話が周囲からあったんだ。その時に、『この馬はずっと宮浦で行くから』と大山先生が言ってくれてね」。名伯楽・大山末治調教師の有無を言わせぬ一言によりコンビ続行が決定。俄然火がついた。

 しかし、次なる黒潮盃(当時は4月に実施)の最終追い切りでは向正面でクルッと回ってUターンするアクシデント。気の悪い面を出してしまった。「これじゃ危ない、って黒潮盃は結局回避。羽田盃の時に、大山先生から外に出さずに内で囲まれるような競馬をしてくれ、とにかくバカつかせるなと指示があった。ここでバカつけば出走停止になって東京ダービーへの出走ができなくなるから。寡黙な大山先生から指示を受けたのはこの時が唯一だったね。スタートして下げて3番手内。みんなが3角で動き始めてもジーッとしていた。4角回りきる時には6番手より後ろだったけど、そこからの力が違った」。

 2馬身抜け出す圧巻ゴールで第一冠の羽田盃を制し、ダービーは一本かぶりで当日を迎えた。「普通に乗れば楽勝だと負ける気がしなかった。2400mはすぐコーナーだから、ソロリと抑えながらのスタート。羽田盃以上に具合いいもんだから馬が走りたがってね。好位のつもりが、掴まったまま一周目の4角でもうハナ。それまでのレースはガチッと気性面を抑えることだけ考えてタテガミに掴まって尻ついて乗ってきたが、今日はダービーだから行っちゃえってね。ハミを掛けて普通にレースしたのはこれが初めてだった。3角で下げて、後ろからくるのを待って直線少し追ったら6馬身ぶっちぎっちゃった」。

 7連勝でダービー制覇、そして秋には東京王冠賞を勝って史上3頭目の三冠馬に輝いた。古馬との対戦となっても快進撃は続き、東京大賞典などタイトルは六冠。南関東重賞では63キロの酷量を科されるようになり翌年に中央移籍するが、脚部不安を発症し一戦しただけで引退。2年半という短い競走生活だった。


第24回東京ダービー ハツシバオー号

中川明美 (競馬ブック)

※この原稿は、過去のレーシングプログラムに掲載されたものに、加筆・訂正を加えたものです。