牛山 基康記者によるコリアカップ(G3)ディクテオン号取材レポート
9月7日に韓国のソウル競馬場で行われた第8回コリアカップ。矢野貴之騎手が騎乗したディクテオンが、最後の直線で豪快な差し切りを決めた。TCK所属馬として初の海外重賞制覇というだけでなく、地方競馬所属馬がダートで行われる海外の国際グレード競走を勝利したのも初めて。その優勝祝賀会が10月26日、管理する荒山勝徳調教師の主催で行われた。どのようにして今回の快挙に至ったのか。関係者の話も交えながら、あらためて振り返りたい。
コリアカップ優勝祝賀会でレース当日を振り返る、
右から矢野貴之騎手、荒山勝徳調教師、藤田凌騎手、仁岸尚昌きゅう務員
1. 選定からレース前日まで
荒山調教師がディクテオンの選択肢にコリアカップを入れた背景には、この舞台ならやれるという手応えもあったのだろう。ソウル競馬場では2013年から2017年まで、短距離を舞台にTCKとの交流競走が行われ、荒山調教師は4回、のべ7頭の管理馬を遠征させていた。短距離は韓国勢も層が厚く、5着が最高だったが、その間に中距離のコリアカップが創設。JRA所属馬が圧倒的な強さで活躍する姿を見て、機会があれば参戦したいと思っていたという。交流競走の休止から8年、ここにきて中距離で活躍中のディクテオンが荒山きゅう舎に移籍。前走の帝王賞4着まで3戦連続で惜敗すると、次の目標をコリアカップに定めた。
帝王賞の最後の直線で大外から追い込む4着のディクテオン
2016年に創設されたコリアカップは、ダート1800mで争われる韓国の中距離路線の最高峰。2022年から国際セリ名簿基準書の定めるPartIのGIII、いわゆる国際GIIIとして実施されている。2024年には新たにアメリカのブリーダーズカップ・チャレンジシリーズに指定され、優勝馬にはブリーダーズカップ・ダートマイルの優先出走権が与えられるようになった。今ではダート戦線の重要な一戦として、日本での注目度も増しているが、招待競走のため、まずは招待馬に選定されないことには出走できない。
コリアカップの発走を待つソウル競馬場の観客
8月6日に予備登録馬が発表され、日本からはディクテオンを含む19頭の登録があった。選定で重視される可能性が高いのはレーティング。競走馬の能力を数値化したものだが、ディクテオンの場合、2走前の川崎記念2着で獲得した114のレーティングが、JRA所属時に帝王賞3着と白山大賞典1着で獲得した自己ベストに並ぶ高いものだった。だが、それを上回るレーティングの登録馬も複数いた。ざっと見た限り、前回と同様に日本から3頭が招待されるとして、おそらく当落線上という数値。レーティングだけでなく、成績も加味されたとして、選定されるかどうか。かなり微妙なところだった。
例年、予備登録馬が発表されてから招待馬の決定が発表されるまでは、数日を要していた。できるだけ早く準備を始めたい関係者にとって、この時間が少しでも短縮されることが望ましいのだが、今回は過去にない早さで翌日の8月7日に発表。ディクテオンは、日本からの招待馬3頭のうちの1頭に選ばれた。後日、選定の担当者が発表した内容によると、どうやら3番目での選定。最初にして最大かもしれない関門をクリアした。
招待馬の発表から数時間後、川崎競馬場に臨場した荒山調教師は、関係各所への連絡など、遠征に向けた準備を進めていた。「もともと選ばれれば行くつもりで牧場に出していました。検疫もあるので、1日でも早くきゅう舎に戻せるように馬運車を手配したところです」。招待馬に選ばれなかった場合、その先のローテーションまで考えると、前もってきゅう舎に戻すわけにもいかない。招待競走の難しい部分だが、発表が早かったことで、多少なりとも余裕をもって準備に取りかかれたのは幸いだったといえそうだ。
川崎記念で勝ち馬のメイショウハリオを追う2着のディクテオン
小林牧場の荒山きゅう舎に戻ったディクテオンは、同所にあるTCKの検疫きゅう舎で輸出検査を開始。8月29日に韓国へ向けて出発した。今回は関西空港からの出国。日本での移動距離が長く、長時間の輸送になるため、そのダメージが大きかった場合は「現地で追い切りができないかもしれない」と荒山調教師。それを考慮して、8月27日に行われた日本での最終追い切りでは、ある程度しっかり負荷がかけられた。
そんな荒山調教師の心配をよそに、ソウル競馬場の国際きゅう舎に到着したディクテオンは、至って元気だったという。担当の仁岸尚昌きゅう務員に聞くと「関西空港までの輸送もイレ込むことなく、飛行機に積み込む時も何の抵抗もしないで普通に乗っていました。仁川空港からソウル競馬場までの馬運車にクーラーがなくて、多少は汗をかいていましたが、着いてからぐったりする様子もなく、飼い葉も食べて、水もいっぱい飲んでいました」とのこと。初めての空輸も含めて18時間ほどかかったという輸送をまったく苦にしなかった。
荒山きゅう舎の韓国への遠征経験は豊富だが、仁岸きゅう務員にとっては初めての海外だった。それでも「栗東の人や現地の人がすごく良くしてくれたので、何も困りませんでした。栗東の人に遠征慣れしている人が何人かいて、助言をもらいながら過ごしていたので、特に問題はなかったです」。栗東からはコリアスプリントに出走するJRA所属馬も含めて5頭が合流。その環境も少なからず結果につながったかもしれない。

9月2日の馬場入りで元気な姿を見せるディクテオンと藤田凌騎手
海外遠征では現地での調教に騎乗できるスタッフの確保も必要になる。その役を今回は藤田凌騎手が果たした。ちょうど大井競馬の開催と重なるスケジュールだったが、荒山調教師からの依頼に二つ返事で応えたという。「日本以外で乗ってみたいという自分の好奇心に負けました」。9月1日からの馬場入りに間に合うように渡韓。すると「初日に乗った時点で、僕としては注文がなかったです。すごく仕上がっているなと。悪いところもないですし、輸送の影響もなさそうでしたので。逆に『ここからもうひと追い、しっかりいくんだ』と驚かされましたね」。それほどの好状態だったとのことだ。
輸送のダメージがなかったため、9月2日も軽く調整を行い、9月3日に現地での最終追い切りが行われた。「仁岸さんと話して、それを先生に伝えて、という感じで」と藤田騎手。日本にいる荒山調教師と相談したうえで内容を決めた。「無理させずに長めから息を整えるような感じで乗って、イメージ通りの追い切りができました」。本馬場に現れたディクテオンは、ソウル競馬場の長い直線を単走で軽快に駆け抜けた。
枠順抽選会で7番を引き当てた藤田凌騎手
追い切りを終えた藤田騎手には同日、枠順抽選という大役も待っていた。ソウル競馬場のスタンド6階にあるコンベンションホールで行われた枠順抽選会は、まず司会のアナウンサーが馬名の書かれた紙が入った福チュモニ(巾着袋)を選び、選ばれた陣営の代表者が登壇して番号を抽選するという流れ。抽選には韓国の伝統工芸品などが使われ、今回は絵や文言の書かれた扇子を選ぶという方法だった。その扇子とともに置かれた名刺入れのふたを取ると、その裏に番号が書かれているというもの。3番目に登壇した藤田騎手は、竹の描かれた扇子を選択。11頭立ての7番に決まった。「先生に知らせたら、7番は合格点らしいです」。あとは無事に本番を迎えられれば、というところまできた。
レース前日の馬場入りを終えたディクテオンは、藤田騎手が「気性的にレースが乗り難しそうなので、そこがどうかでしたけど、仕上がりが悪い方に影響することはなさそうだなと。たぶん、すごくいい状態でレースまでもっていけるなという感じはありました」と仕上げに太鼓判。心配は当日の馬場状態だった。前日の雨で含水率は16%からスタート。途中で14%に回復したが、それでも含水率からの換算では日本の表記なら不良馬場に近い重馬場ぐらいの状態。道悪が苦手だというディクテオンには厳しい馬場かと思われた。
9月3日に現地での最終追い切りを行うディクテオン
本番に騎乗する矢野騎手は、ソウル競馬場で行われていたTCKとの交流競走に2回、2014年と2016年に遠征している。最初の遠征ではエキストラ騎乗もこなした。いずれも短距離だったが、その3戦の経験でコースのイメージはできていたという。さらに「いい意味で変わってなかったのが良かったですね。ジョッキールームの場所が分からなかったりすると不安になるじゃないですか。そういうのがなかったので、競馬に打ち込めました」。
2. 地方所属馬初の海外ダート国際グレード競走制覇
入場後すぐにキャンターで返し馬を行うディクテオン
レース当日、パドックに現れたディクテオンの馬体重は504kgだった。前走の帝王賞から12kg増。それだけで長時間の輸送や初めての場所を気にしなかったことがうかがえた。そのどっしりとした性格で、パドックから大声援を飛ばすソウル競馬場の観客たちにも動じなかったようだ。ほかにも、メインレースなどで本馬場入場時に手拍子を求める入場曲と映像が流れる。コロナ禍が明けた数年前から若年層を楽しませようという施策で行われているが、これはどうだったのか。矢野騎手に聞くと「外ラチ沿いを歩かせていこうかなと思っていたけど、手拍子していたので、これはダメだなと。それでキャンターにいったんです。ディクテオンだから影響はなかったですけど」。さすがに手拍子からは逃げたが、それも鞍上の判断。それだけ海外遠征に向いた性格をしていたということだろう。
コリアカップのゲート入りが進む内コースの発走地点
無事に返し馬を終え、あとはレースで末脚を生かせるかどうかだけとなったディクテオン。だが、矢野騎手の心配は馬場状態だけでなく、韓国ならではのルールにもあった。スタートしてから100mは進路変更ができず、出むちも使えない。「本当にテンが進まないので、最後方からというのを覚悟しながら乗っていたんです」。ところが「思いのほか進んで、思ったよりも前で進められたなと。いい意味で予想外でしたね」。スタートを決めたこともあり、スタンド前を8番手で通過。先行集団からは徐々に離されたが「流れ的にはいいぞ」と思ったという。そこから「動きたいところで動けた」と向正面で仕掛けて7番手。塊になっていた前の6頭を追った。
内コースの1コーナー手前を8番手で通過するディクテオン
ソウル競馬場は、外コースが1周1800m、内コースが1周1600mで、どちらもダート。ゴールは外コースにしかなく、コリアカップの舞台となる1800mは、内からスタートして4コーナーで外に出る。距離によっては外コースだけを使うことや、2コーナーで外に出ることもあるため、4コーナーの内ラチは移動式。どうしてもきれいな曲線にはならない。その4コーナーも勝負のポイントだった。「すごい角度なんです。寝かせていかなければダメみたいなきつさなので、あそこだけ大事に回りたいなと思って」と矢野騎手。むちを入れながら3コーナーを回ると、4コーナーから直線に向くまでは慎重だった。「ひと呼吸ですけど、あそこで少し我慢できたのが、ゴール前の伸びにつながったんじゃないかと」。直線はゴールまで400m。バラけた前の6頭を外から1頭ずつ捉えていくと、残り200mで前にいたのは競り合う2頭。その争いから香港のチェンチェングローリーが抜け出したところに一気に襲いかかった。脚いろの差は歴然。残り50mを過ぎて差し切ると、ゴールの瞬間は1馬身も突き抜けていた。
直線で6頭を差し切り先頭でゴールしたディクテオン
冷静な騎乗に見えた矢野騎手だが、表彰式に向かう途中に聞くと「3コーナーで『勝てるな』と思ったら、心臓がバクバクして」と興奮状態で直線を迎えていたという。きゅう務員席のモニターで見ていた仁岸きゅう務員は「それまでのレースが前残りだったので、正直、位置取り的には『届かないよね』という感じで見ていました。まさかあんなに伸びてくれるとは」。スタンドから見届けた荒山調教師は「4コーナーで意外と差が詰まらなかったので『もしかしたらやばいかも』と。でも最後にジリジリ来た時には、かなり力が入って、テーブルをたたきすぎました」。劇的な差し切りに、それぞれが矢野騎手とは別の興奮を味わっていた。
ゴール後に流すディクテオンと2着のチェンチェングローリー
終わってみれば馬場状態も問題なかった。市内から郊外に移転して1989年9月に開場した現在のソウル競馬場は、それ以降、大規模な改修ができていない。路盤が硬くなっているうえに、クッション砂も開場当初より厚くなったとはいえ8cmと薄く、含水率14%ぐらいであれば、脚を取られるような状態にならないのかもしれない。戦前のインタビューで馬場について聞かれた外国馬の関係者の多くが「硬い」という印象を口にしていた。日本のダートと同様の構造だが、クッション性は低いのだろう。仁岸きゅう務員は「思いのほか馬場が浅かったので、ぬかりでも対応できたのかなと思いました」と振り返った。
荒山調教師、仁岸きゅう務員、矢野騎手と記念撮影を行うディクテオン
3. レースを終えて
冒頭で紹介したように、コリアカップはブリーダーズカップ・チャレンジシリーズ。この勝利でブリーダーズカップ・ダートマイルの優先出走権を獲得したが、距離適性を考慮して参戦は見送られた。矢野騎手は「そういうのをちらつかされると、アメリカでも乗りたいな、というのがふつふつと出てきますよね」と意欲をかき立てられていた。今回は調教での騎乗だけだった藤田騎手も「アメリカにも行ってみたいと思っているので、これをきっかけにして、チャンスがあれば」と海外に視野を広げている。
ウイニングランでガッツポーズを見せる矢野貴之騎手
ブリーダーズカップ・ダートマイルの参戦は見送られたが、海外のダートの大舞台は、今やアメリカだけではない。「ここから国内で成績が上がっていけば、自ずと行ける道も開けると思うので、サウジだったり、ドバイだったりも行ってみたいです。それまでの成績がものをいうと思うので、一戦一戦、勝てるように作っていきたいと思います」と仁岸きゅう務員。今後の海外遠征の可能性にも備えている。
ついに海外初勝利を挙げた荒山調教師は、さらなる挑戦も見据えている。「欲は出ますよね。とりあえずは今年の2歳で結果を出していって、来年のサンタアニタダービーに行ける馬を作れれば。あとは古馬でサウジとかドバイに行ければいいですね。雰囲気も違うと思うので。これからももっとチャレンジしていきたいなと思います」。
コリアカップ優勝祝賀会であいさつする荒山勝徳調教師
招待競走であっても決して簡単ではない海外遠征。それを最高の結果で終えた。「今回の勝利は、ディクテオンに携わってくれたすべての人の、すべてがうまくいったなと。誰が欠けてもだめだったんだろうなと思います」という仁岸きゅう務員の言葉が、その難しさを物語る。すべての関係者の思いを乗せて走ったディクテオンは、地方競馬史に新たな1ページを加えた。
仁岸尚昌きゅう務員に引かれパドックを周回するディクテオンと矢野貴之騎手
<文・写真:牛山 基康>

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