TCKコラム

TCK Column vol.08

ターフに殉じた“平成の走る将軍”

競馬は「意外性のドラマ」の連続と言われますが、競走馬としてのサラブレッドの生涯にも数奇な運命の巡り合わせがあり、人間社会の縮図に似たものを感じます。大井競馬が生んだ名馬の中でもハシルショウグンのレース中の孤独な死は涙を誘うエピソードです。ハシルショウグンは、その名の通り”平成の走る将軍”として東京王冠賞、帝王賞、大井記念(2回)などを制した地方最強馬でした。しかし、中央入り後は不運で、勝てないままに障害を走り、故障のためターフに殉じる壮絶な最期を遂げました。平成8年初夏の出来事でしたが、ファンは大井時代の輝くばかりの真摯な走りを決して忘れないでしょう。第4回は中央のジャパンCにも2度挑戦した思い出の名馬ハシルショウグンです。

ハシルショウグンの突然の死から早や7年の歳月が流れようとしている。1996年5月19日の東京競馬第5レース。ハシルショウグンは初めて障害に挑んだ。その7ヶ月前の10月29日、中央に新天地を求めた同馬は美浦・嶋田潤厩舎の管理馬として田中勝春騎乗で天皇賞・秋に出走したが、しんがりの17着と惨敗していた。年が変わり、すでに8歳になっていたが、平場のスピードぶりから飛越さえ無事なら勝機はあると思われた。ところがハードルさばきはもどかしかった。最後の直線で浜野谷憲尚騎手が慌てたように下馬するのが見えた。左前第1指関節脱臼という最悪の事態だった。ハシルショウグンは永遠にゴールインすることなく、安楽死の処置が取られた。

1988年4月18日、北海道・門別町豊田の森永孝志牧場で額に星の輝く真黒い牡駒が誕生した。父はフランス産の芦毛の中距離ランナーだったメンデスで、母もフランス産のツイッグの娘ハイビクターという血統。母は現役時代、東京大賞典2着という実績があった。生まれた時、青鹿毛のような馬体でわずかに白い刺毛が混じり”芦毛”と判定された。スラリとした体形の元気な仔馬だった。森永氏は「こいつは走るぞ、一目でわかる」と直感した。牧場の同期の6頭の中では、常に先頭を走り、ボス的存在だった。門別町厚賀地区の品評会でも上位に入賞した。「静内のセリに出場する前日に牧柵を飛び越えたり、素直ではあったが悍性はきつかった」と森永氏は当歳時を語る。メンデスは気性の激しい種牡馬だったが、母馬も骨量のある気丈夫の馬で、当歳仔は両親からいい意味の闘争心を受け継いだようだった。牧場を訪れる人に「1000万円くらいでどうか」と誘いを入れたが、まだ産駒の結果が出ていないメンデスが敬遠されたのか売れなかった。だが、静内の当歳セリで黒い芦毛の仔は1510万円の高値で売れた。買ったのは静内の大典牧場の渡辺典六氏だった。

大井の赤間清松厩舎に預けられることになり「”走る”と直感した」渡辺オーナーは「ハシルショウグン」と命名した。赤間氏が育成中の同馬を初めて見た時、若駒は「どうだ、オレをよく見てくれ!」と言わんばかりに気取った表情で立ち姿勢のポーズを取った。「なんとも言えない雰囲気があり、歩かせると洒落て歩くんだ。堂々たる態度、気品が備っていてね。それでいて音とかには敏感で、瞬発力の鋭さものぞかせてね。自分の眼に間違いなければ必ず走ると思いました」と赤間師は一目惚れした。

赤間師の相馬眼に誤りのなかったことは、デビューの新馬戦と次の白菊特別を連勝したことで証明された。新馬の手綱を取った的場文男騎手は「勝ちタイムは決して速くないけどスケールの大きな走りでこれは大物かもしれないと思った。素軽くて最高の乗り味なんだ」とその素質を認めた。初戦は馬なりのままで8馬身、2戦目はぶっちぎりの大差勝ち。2連勝の内容に「ハイセイコー以来の逸材だ」「来春の東京ダービーはショウグンで決まりだな」の声も出たほどだった。

ところがそんな矢先、調教中にトモを骨折して無念のリタイアを余儀なくされた。ハシルショウグンが再び大井のファンの前に姿を現した時には羽田盃も東京ダービーも終わっていた。3冠で残されたのは東京王冠賞だけだったが、気丈なショウグンは再び負け知らずの快進撃を続け、土つかずの6連勝で東京王冠賞を圧勝した。しかも2番手からほとんど追われずに抜け出し、2着に4馬身差をつけた。

「あの故障がなければ間違いなく3冠馬だったでしょう」と赤間師も的場文男も口を揃えた。ところが、ハシルショウグンの無敗神話は1ヵ月後の東京大賞典でもろくも崩れ去った。主戦的場が骨折で乗れず高橋三郎で初めての敗戦。考えもしない7着惨敗だった。新怪物から単なるオープン馬に成り下がったショウグンは、翌年6月の大井記念で2つ目の重賞制覇を果たしたが、中山のオールカマーと初めて挑んだジャパンCは慣れぬターフに戸惑って8、14着と惨敗した。だが、ハシルショウグンにも意地があった。5歳時の2月に川崎記念に勝つと続く帝王賞と大井記念にも勝って3連勝。帝王賞は好位で折り合って行き、直線満を持してのたたき合いから抜け出したものであり、3歳時の東京王冠賞と並ぶ的場文男の快心のプレーだった。馬も絶好調で再び”走る将軍”として2度目の春が訪れた。

しかし、好調は続かなかった。2度目のジャパンCに挑戦のためオールカマー(2着)での無理がたたって、それが最後まで影響したようだ。32戦(10勝)中、18回手綱を取った名手・的場文男は「真面目な馬なのでデリケートな面はあったが、強い時の流れるようなフットワークはまさに名馬の証し。一番強いと思ったのは東京王冠賞と帝王賞。今までマルゼンアディアル、カウンテスアップ、ブルーファミリー、ナイキジャガー、ゴールドヘッド、コンサートボーイなどタイプの違う名馬に騎乗してきたが、ハシルショウグンは特に印象に残る一頭です」と懐かしむ。

赤間師の思い出も尽きない。「2度目のオールカマーの1週間前に挫石で歩様に異変が起きたが、ジャパンCに出走させたいので蹄底部の化膿した患部へメスを入れました。鮮血が吹き出してね。止血して消毒をして脱脂綿をつめて出走させたんです。ショウグンは痛みに耐えて走り、逃げたツインターボの2着と頑張って出走権を得ました。でもあれが限界でした。3本脚では満足に走れず本番は16着のしんがり負けでした。獣医が絶対ダメというのに私は走らせました。これは教訓として胸に残りました。馬の難しさを知らされました。申し訳ない気持ちで一杯でした。それ以後は以前のショウグンとは別馬でした」-ハシルショウグンに3度目の春は訪れなかった。赤間師は当時を思い出して静かに語るのだった。

横尾 一彦
日刊スポーツ時代(98年退社)に編集委員として競馬コラム担当。フリー・ジャーナリスト。
中央競馬会の「優駿」コラムニスト。「サラブレッド・ヒーロー列伝」を103回にわたり長期連載。