重賞名馬ストーリー

重賞名馬ストーリー vol.19

時代の扉を開けた馬 トミアルコ ~東京2歳優駿牝馬~

 昭和61年7月31日。日本初のナイター競馬「トゥインクルレース」が大井競馬場で始まった。

 記念すべきこの日のメイン競走はブリリアントカップ。まばゆく光るカクテルライトの中、スイスイと1,600mを逃げ切ったのが人気薄の3歳馬(現表記)トミアルコだった。「骨折明けの上に初めての古馬相手。それでも期待通りのスピードを見せてくれた。ナイター照明に映える青森の白い砂を入れて、時計のかかる馬場だったが実に鮮やかだった。とにかく『第一回』に縁がある馬だったね」と田中康弘調教師。トミアルコはこのあと第一回ダービーグランプリの覇者となり、交流レースの歴史にも最初のページにその名を刻んでいく。

 「入厩して初めて馬場に出たとき、ケタ違いのバネの良さに驚いて、田中先生に『この馬は間違いなくオープンに行きますね』と答えた。イナリワンにだってそこまで言い切れなかったよ。まるでゴムマリみたいだった」と宮浦正行騎手(現調教師)。

 案の定、デビュー戦は逃げ切り楽勝。ノノアルコの初年度産駒であり、兄に東京盃、大井記念をレコード勝ちしたタイムリーヒットがいる血統ということもあって、入厩する時から期待は大きく「活躍が約束された馬」だったという。

 ところが、二戦目になるとゲートで暴れ転倒。尋常じゃなくゲートを嫌うようになり、練習では宮浦騎手が何度も下敷きになるほどの暴れっぷり。「これでダメだったら競走馬としてオーナーに諦めてもらうしかないという気持ちで矯正に手を尽くしたら、観念したかのようにピタリと暴れなくなってね。賢い馬だからゲートで暴れてケガすると自分が痛いということを悟ったんだろうね。その後は一度たりと出遅れることはなかった」(田中調教師)。

 東京2歳優駿牝馬に向かったのは5戦目のこと。「ダッシュが速い上に位置取りにこだわるとか、泥を被るとどうとかまったく注文のない馬だったから、テンが速いならゆっくり行こうって5番手から。直線は一頭手応えが違ってた」と3馬身圧勝で見事優勝。その後、管骨にヒビが入っていることが判明してクラシックとは無縁だったが、夏のブリリアントCであっさりと復帰戦を飾った。

 「最初の頃にはゲートの悪さに出てしまっていた気持ちの強さがレースの方に向かうようになっていたし、ひと夏で良い具合に成長してくれていた。12月に水沢で交流レースのダービーグランプリが始まると聞いて、小回りなら先に行けるうちの馬には有利だと勝算をもって岩手に向かった。大井で青雲賞を勝ったタカシマリーガル(名古屋に移籍)も出走していたが、相手は北関東の三冠馬サラノオー一頭だと踏んでいた」という田中調教師の期待以上の強さで逃げ切り、交流の扉を開けた。

 「中央に移籍して芝を走らせてみたいとオーナーが希望してね。それでいったん休養に行ったんだけど、その先で脚部不安が出てしまった。血統の魅力もあったからそのまま繁殖に上がることになったが、あれだけスピードある馬だから芝に行ったらどんな競馬をしていただろう。もう少し走らせたかったね。レースを使うごとに何かを習得して、一つ一つ自分自身で納得して走っているようだった」と田中調教師が言うと、「常に落ち着き払って、イレ込むってこともなかったから、ここまで安心して乗れる馬も珍しかったよね」と宮浦騎手も言葉を重ねた。

 トミアルコは16戦6勝と、短いながら『濃厚』で『記録に残る』競走生活を、時代の幕開けと共に駆け抜けた。


第9回東京2歳優駿牝馬 トミアルコ号

中川明美 (競馬ブック)

※この原稿は、過去のレーシングプログラムに掲載されたものに、加筆・訂正を加えたものです。