重賞名馬ストーリー

重賞名馬ストーリー vol.13

6年連続出走の老雄 テツノヒリユウ ~東京盃~

 テツノヒリユウは10歳まで走った。現在の表記では9歳となるが、「南関東では10歳定年」と決まっていた時代。定年になるまで走り続けたということになる。しかも引退した年の正月には、東京シティ盃を制して最後まで一線級と肩を並べる活躍をした。

 テツノヒリユウはなぜ、老雄となってからも走り続けることができたのだろうか。

 現表記に戻して2歳秋にデビューしたテツノヒリユウ。クラシックにも出走したが羽田盃8着、ダービー7着とかんばしい成績ではなかった。初めて古馬重賞に挑戦したのが3歳の東京盃7着。以降8歳まで6年連続して東京盃に出走している。徐々に頭角を現し、4歳では初タイトルの関東盃を制して、続く東京盃でも優勝した。「新馬勝ちしたときからスピードのある馬だと思っていたが、出だしの頃は逃げにこだわってはなかった。だんだん短距離のイメージができてきた。当時は今ほど短い距離のレースがなかったから使うしかなかったんだけど千八までなら何とか粘ることはあっても二千になるとバテバテだった」とデビュー時から担当していた佐藤明記厩務員。「短距離のスピード馬」というイメージは固まっていった。5歳の東京盃では3着、6歳は7着、7歳では5着、そして8歳‥。
「典型的な逃げ馬だった。でも8歳の東京盃は行けなかったんだよね。スタートセンスがいいからポンと出て、今日も行けるかと思ったら、もう2、3頭もっと速い馬がいてね。おっ、行けない、まずいと思いながら4番手からの競馬。このまま上がっていけないのかと思ったら、前の馬が止まって、交わしたところがゴール。最後伸びる今までとは違う競馬で2度目の東京盃を優勝したんだ。バリバリのスプリンターであの年まで馬体を維持していたんだから凄い馬。見た目はそう変わらなかったけど、やっと引退間近になって背中に衰えが出てたかな。佐藤さん、古橋さん、この馬に関わった二人の厩務員さんのケアが良かったんだと思う。大山厩舎には腕利きがたくさんいて、普段から大事に内馬場で軽目の調教を続けるのが大山先生のやり方でもあった。今になって先生の馬づくりの巧みさを感じてます」と鷹見浩騎手(現調教師)。

 ハツシバオー、トウケイホープ、テツノカチドキなど歴代の名馬を輩出した大山末治厩舎。大山調教師の馬づくりは一風変わっていて、強く攻める調教をしないで仕上げる。「育ち盛りの若馬に痛い、痒いがあってはいけない」という信念で時間をかけ、明け3歳でのデビューが多かった。また、暗い時間に調教しないのも独特で、これは「自律神経の生体リズムに合わせて調教した方が効果が上がる」という生理学的裏付けに基づいていた。若馬時代に無理ない調教がなされているせいか、古豪になっても息の長い活躍をする馬が多かったという。

 6歳から担当しているのが古橋義明厩務員。「大山厩舎流の調教があの馬にぴったり合ったんだろうね。心臓が強くなっていった。自分でカラダを作るところがあって、重いとカイバをちゃんと残すわけ。馬が自分で調節するんだ。それに夏場に調子を上げる馬でね。だから関東盃や東京盃の時期を得意としていたんだけど、最後はね、調教でも動かなくなってた。『もう辞めたいよ』って馬は思ってたんだろうな」。

 9歳の秋、テツノヒリユウは静かに厩舎をあとにした。65戦19勝。8年にわたる長き競走生活だった。


第25回東京盃 テツノヒリユウ号

中川明美 (競馬ブック)

※この原稿は、過去のレーシングプログラムに掲載されたものに、加筆・訂正を加えたものです。