重賞名馬ストーリー

重賞名馬ストーリー vol.10

国内に無敵誇ったホスピタリティ ~黒潮盃~

 「俺にとってホスピタリティは先生だった。中学を出た2日後に、厩務員になるために高知から来たんだけど、兄弟子の石川(綱夫)さんが怪我したんで馬に乗ってみるかと勧められるままに騎手見習いになった。ホスピタリティが厩舎に来たのも同じ頃で、夜中に着いた馬運車まで俺が迎えにいったんだ。420キロくらいでね、馬主の会長さんから『ちっこい馬だからちょうどいい。実、この馬で勉強しろ』って言われてね。俺にそう言うくらいだから、最初はそんなに期待してなかったんだと思う(笑)」。

 朝倉実調教師が29年前の出会いを懐かしんだ。

 生涯成績11戦10勝。唯一の黒星はジャパンカップの前哨戦とされた国際招待オープンでカナダ馬フロストキングに負けたもの。ホスピタリティは「国内に敵なし」と言われる最強馬へと上り詰めていく。

 「能力試験前に初めて15-15の時計を出すことになって、前にオープン馬のアズマキングがいたもんだから、先生から追いかけろって言われた時の力強さといったら、もう全身がバネだった。西川さんが乗ってデビューするんだけど、連戦連勝ぶっちぎり。使うたびに馬体が大きくなって、京浜盃まで6連勝した頃には480キロになっていた。驚いたのは黒潮盃(当時はクラシック前哨戦の位置付け)。レース前の本追い切りで61秒くらいで動いたと思ったら、向正面で乗っていた西川さんがポトンと落ちて放馬。結局3周くらい回ったかな。普通の馬ならそれでリズムを崩してしまうんだけど、ホスピタリティは違った。レースはあっさり逃げ切って5馬身圧勝しちゃうんだから」。ホスピタリティはクラシック第一冠の羽田盃も逃げ切った。そして東京ダービーに駒を進めるはずだった。

 ここからはホスピタリティの装蹄を担当した小泉勇治装蹄師に語ってもらおう。「小ぢんまりとした丈夫そうな蹄をしていたけど、本来なら20日もつ蹄鉄が10日ですり減ってしまう。キック力が強過ぎたんだな。レースから上がってくると、蹴る力で鉄がずり下がっている状態。だから『鉄唇』という留め具を前と両脇に着けてガッチリ動かないように工夫していた。気性の激しい馬で獣医を寄せ付けなかったんだけど、何故か装蹄はおとなしく脚を触らせた。それでも右前を削る時にカマを入れる一瞬だけ嫌な素振りを見せる。万が一、この馬が故障することがあれば右前に出るなと思っていた」という。

 その『万が一』が起こってしまった。すでに東京ダービーの枠順は発表されていたが、どうも様子がおかしい。検査の結果は「右膝蓋靱帯炎」。ホスピタリティのダービー取消しについては朝倉文四郎調教師による異例の記者会見が開かれた。それだけホスピタリティの存在は世間の注目を集めるまでになっていた。
「これだけの強さなら、菊花賞を目指して中央へ移籍させたい」というオーナーサイドの希望に朝倉文四郎調教師は喜んで送り出したという。移籍後初戦のセントライト記念では、皐月賞馬アズマハンターを3馬身負かした。ところがホスピタリティにはクラシック登録がされていないことが判明。無念というしかないが、目標をジャパンカップに切り替えると、前哨戦の国際招待でミナガワマンナ等を抑えて日本馬最先着。しかし本番のジャパンカップを目前にして脚元に不安を発症し、出走を断念するに至った。その後、約10ヶ月かけて再起しオープン特別を勝ったものの、脚部不安はつきまとい種牡馬入りが決まった。連対率100%、ついに国内に敵は現れなかった。

 父としても皐月賞馬ドクタースパート等を輩出したが、2005年に種牡馬引退すると、故郷の「森牧場」で静かな余生を過ごしていた。そして2008年8月4日、老衰により死亡。29歳という大往生だった。


第16回黒潮盃 ホスピタリティ号

中川明美 (競馬ブック)

※この原稿は、過去のレーシングプログラムに掲載されたものに、加筆・訂正を加えたものです。