重賞名馬ストーリー

重賞名馬ストーリー vol.08

時代を先駆けた韋駄天オリオンザサンクス ~ジャパンダートダービー~

 1998年、2歳の春に北海道でデビューしたオリオンザサンクス。夏にはレコードタイムで駆け抜け、秋の栄冠賞ではそのタイムをみずから塗り替える快速ぶりを披露した。6戦4勝の鳴り物入りで大井に移籍。南関東クラシックを目論んでのことだった。
「栄冠賞のあとすぐ来たんだけど、馬運車までいくと何頭か積まれた中で一頭だけ違って見えた。迫力というか威圧感があってね。それがサンクスだった」と第一印象を語る関喜一さん。8年前に定年引退するまでハシルショウグンやジョージモナークなど重賞20タイトル以上を手にしている腕利き厩務員である。調教を任されたのは早田秀治騎手。「普段は関さんが乗り運動できるくらいおとなしいんだけど、いったんスイッチが入ると首を丸めてロデオ状態。それも急にだから、何度も突き指したものだよ。道営では引っ掛かってどうしようもなくて、他馬がまだいない朝の1時半くらいから攻め馬していたって聞いてたから、どんな手強いんだろうと思ったけど、実際跨ってみると口は確かに硬くて引っ掛かるけど、最初に角馬場で慣らしてから乗ったらなんとか内コースで調教をこなせるようになった」と、二人のベテランによって「まともに調教できなかった暴れ馬」が稀代の韋駄天として大成していく。

 転入初戦は全日本3歳優駿(当時)。「事前にスクーリングに川崎まで連れて行ったんだけど、コーナーをうまく回れなくてね。経験のない左回りでカーブもきついから、これじゃ大外枠から逃げようとしたらコーナーで大変なことになると思って3、4番手で抑える競馬をした。結果は良くなかったけど、スピードが相当あるってことはよくわかったよ」。

 大雪の京浜盃、続く羽田盃とあっさり逃げ切り勝ち。当時は二冠目として秋から春に移行した東京王冠賞に向かうも、ローテーションがきつかったこともあって最後は力尽きて3着。しかしその後の東京ダービーでは、付け入る隙を見せずコンマ5秒振り切って戴冠した。

 そして、この年に創設されたジャパンダートダービーに駒を進めた。JRAのタイキヘラクレスと人気を分け合った。「もうだいぶ暑くなっていて、体調的にはギリギリ耐えていたという感じだった。あっさり先手を取ったけど、この馬はスタートが速いんじゃなくて二の足がすごい。最初のコーナーに向かいながらグングン加速してスピードをあげていく。この速さは自分がいろいろ乗ってきた馬の中でも抜群だね。乗っている時は常に折り合いとの闘いで、加減よく抑えるのに必死。でも結局レースで折り合いがついたことは一度もなかったかな。気分良く逃げて直線向いたまでは手応えいいのに、最後の200mくらいでパタッとなくなった。この馬に乗る時には、直線いつ迫られるかの恐怖を感じていたよね」。逃亡者の宿命も、この時は3コーナー回ってもまだ後続との差は10馬身。オペラハットの猛追を首差退けて初代ジャパンダートダービー覇者となった。

 重賞ハンターと呼ばれた早田騎手はJRAオールカマー制覇をはじめ重賞41勝しているが、その頃、騎手として壁に当たり苦悩していた。そんな時に出会ったのがオリオンザサンクス。「救世主だった。その頃の俺は騎手としてくすぶっていてね。走る馬に乗りたくてウズウズしていた。この馬と出会えたのは最高のチャンスだった」。オリオンザサンクスは古馬になってからも、第一回ジャパンCダートに地方代表として参戦するなど時代の先駆けとして挑戦し続けただけではなく、早田秀治という騎手を再び大舞台へと導いた。

 そしてまた、定年を間近にした関厩務員にとっても輝かしい花道を作ってくれた馬。「どうやったら落ち着いて走ってくれるか、耳栓をしたりメンコの耳の部分を何重にしたり、色々やったね。踏み込みが深くて、沈み込む上にスピードがあるから砂面と擦れて球節がえぐれるほどのトモ擦れができた。治すのにあの手この手と何でもやったよ。それだけ手の掛け甲斐のあった馬だから」と、集大成のように手を尽くした。

 最後のレースとなったのは佐賀記念。「馬主さんが九州の方ということで遠征したんだけど、返し馬でノメっていてね。馬場が深いからかなぁと思っていたんだが、無理があったんだね。レース中に屈腱炎を発症してしまった」。

 引退後は種牡馬となり、2008年には3年目の産駒オリオンザナイトが九州ダービーを制覇。韋駄天の血を受け継ぐ二世の登場で、いま再び注目を浴びている。


第1回ジャパンダートダービー オリオンザサンクス号

中川明美 (競馬ブック)

※この原稿は、過去のレーシングプログラムに掲載されたものに、加筆・訂正を加えたものです。