重賞名馬ストーリー

重賞名馬ストーリー vol.07

奇跡の帝王 チャンピオンスター ~帝王賞~

 32回の帝王賞の歴史の中でも二度戴冠しているのはチャンピオンスターただ一頭。しかも連覇ではなく4歳と7歳の時という偉業。不死鳥のような競走馬生活だった。幾度もの苦難を乗り越えた奇跡。それはまた鞍上を担った高橋三郎(現調教師)という騎手人生ともリンクしていた。

 奨励馬として405万円で取引されたチャンピオンスター。デビューから3連勝と幸先のいいスタートを切り、クラシックロードにも乗ったが、本格化したのは4歳になってから。昭和62年(1987年)暮れ、高橋騎手は右足の切断を迫られるほどの落馬事故から2年ぶりの復帰を果たし、東京大賞典で初めてチャンピオンスターの手綱を取った。年明けのウインターカップを勝利し、続く金盃では、4馬身引き離す圧勝劇。さあ次は帝王賞か、という時に再びの大怪我。2歳馬の調教中に転倒し、馬の下敷きになって大腿骨々折を負ってしまったのだ。

 中央との交流になって3年目の第11回帝王賞。急きょ抜擢された桑島孝春騎手を背に、直線イナリワンを抑え、シナノジョージとの叩き合いを制する姿を、療養していた那須の病室で見ていた。「テレビを見ながら俺も早くまた馬に乗りたい。チャンピオンスターに乗りたいって思った」と再起を誓ったという。

 7ヶ月後に見事復帰し、東京記念で再びコンビを組んだが、どうもチャンピオンスターの様子がおかしい。一番人気に推されながら伸びを欠き7着。競走馬として致命症とされる屈腱炎を発症してしまっていた。そこからは脚元との闘いが始まった。「栗山牧場に休養に出て、そのあと九十九里の牧場で海水治療。塩水は屈腱炎や靱帯に効くってことで馬に乗ったまま海に入って歩かせるんだけど、ずいぶん乗りに通ったもんだ」。

 戦列復帰するまで費やした時間は1年10ヶ月。「復活させたい」と願うオーナーはじめ関係者は、辛抱強く待つしかなかった。

 奇跡は起こった。既に6歳となっていたが、東京記念で2年5ヶ月ぶりの勝利。そして翌年の第14回帝王賞。「いつもゲートが悪くて、中で膠着することもあったんだけど、この日は珍しく素直に出てね。中団から内に入って向正面から3コーナー過ぎても内々ぴったり。普段ならテンションが上がって折り合いがつかないんだけど、この日はそんなこともなくてね。馬の体調も良かったのかなぁ。前に馬を置いてそこから抜け出す一瞬の脚は速くて、かといって早めにハナ立ち過ぎるとフワーッと気を抜くところがあるから、なかなかタイミングが難しい。道中ナリタハヤブサと同じくらいの位置にいたから、向こうが追い出したら動こうといつもより追い出しを遅らせた。テツノヒリュウとジョージモナークが前に行っていて、そのインをスルリとね。今思うと審議になるギリギリ。あれも勝負。ずいぶん内にモタれながらだったから、最後は屈腱炎が苦しかったんだろうな」。2度目の帝王賞優勝。現在は調教師として活躍する高橋師は、昨日の事のように忘れられないと言う。

 「弱い点を克服してここまでよく立ち直った。最高のレースをしてくれた。『長い休養からお互いよみがえって、ロートル同士でよく頑張ったな』って帝王賞を勝った時、スターにそう声を掛けたよ。帝王賞のあと、報知オールスターカップも勝って中山のオールカマーに行ったんだけど、あの日はやけに口が硬くて1コーナーのカーブでガーッと引っ掛かって2周目の3コーナー手前であれ、おかしいと思ったら次の瞬間ガクーッと。必死で止めようとしてももう止まらなくてゴールまで行ったけど、レース中屈腱炎が伸びてしまっていた。道中もし気づくのが遅かったら、薬殺になっていただろう」。 一命を取り止めたチャンピオンスターは種牡馬入りした。しかし再び悲劇が待っていた。いくら交配しても種がつかない。13頭つけた時点で宿したのはたった1頭。検査すると精子の数が極端に少ないことが判明し、種牡馬失格の烙印が。様々に手を尽くしても、よみがえることは無かったが「せめて暖かいところで余生を送らせたい」と、風邪をこじらせて亡くなるまで栃木で過ごした。わずか1頭血を繋げた牝駒は、アレチャンピオンと名付けられ高橋騎手が手綱を握った。額の白星も体型もよく似たその一人娘は、短い競走生活を終え母となり、希有な父の血を繋げている。


第14回帝王賞 チャンピオンスター号

中川明美 (競馬ブック)

※この原稿は、過去のレーシングプログラムに掲載されたものに、加筆・訂正を加えたものです。