重賞名馬ストーリー

重賞名馬ストーリー vol.02

全国を駆け抜けた快速馬カガヤキローマン ~東京スプリント~

 短距離戦線が今のように整備されていなかったその昔、スプリンター達は限られた短距離レースを求めて全国を行脚した。カガヤキローマンという世紀末を駆け抜けた快速馬は4歳(現表記)から11歳までの間に7回北海道スプリントカップ(1000m)に出走し、東京スプリントの前身である東京シティ盃には4回登場。東京盃を連覇する神々しさで砂の短距離王に君臨した。

 2歳秋にデビューしたカガヤキローマン。新馬戦は楽勝したものの、二戦目から距離が延びて1500mになると途端にゴール前もがいた。特別戦となれば1700、1800mが多く距離が限定されていたため、さらに苦戦。クラシックとは無縁の3歳春を過ごした。「俺が最初に乗ったのは9戦目で初の古馬対戦。背中の良さとスピード感が素晴らしくてね。これならきっと上のクラスに挑戦できると踏んでいたら、2戦後には石崎さんに乗り替わり(笑)。石崎さんが乗るようになっても気になってこの馬のレースをずっと見ていたが、スピード生かせる短い距離の方がいいんじゃないかと思っていた」と森下博騎手。

 短距離中心に照準を絞って出走するようになると、カガヤキローマンはみるみる頭角を現し、5歳秋の北海道スプリントCではレコード勝ち。そして森下騎手が再び手綱をとったのは連覇のかかった東京盃。岩手のサカモトデュラブが逃げ、カガヤキローマンが追う。「久しぶりに乗ったらスピード感に力強さが増していたよ。2番手から抜け出して直線先頭。後ろから白い馬体が迫ってくるのが見えて一瞬ヒヤリとしたところがゴールだった。交流もまだ少ない頃だったから気分はもう最高」とワシントンカラーを半馬身振り切った。「悔やまれるのは東京盃後にいった笠松・全日本サラブレッドC(3着)。あれは勝っていたはずのレース。2、3番手つけられたのに1コーナーで抑えて後ろから競馬をしてね。俺が相手をなめていたんだな。俺の失敗。だから次の東京シティ盃は気を引き締めて乗った。スピードでは負けないと思っていたが、何しろ1400m(当時)の大外16番枠と条件は厳しい。それでもスタートしてみると思った以上のダッシュ力で飛び出してね。2コーナーではもう楽に息入れられるペースでハナ立っていた。このままいけるな、勝ったなと思った。たった1ハロンでこんな楽な競馬に持ち込める馬はそういるもんじゃない。シティ盃で楽勝したら余計に笠松での失敗が悔しくてたまらなくなったよ」と58キロを背負いながらも完勝。絶頂期にあった。

 こうして第9回東京シティ盃馬に輝いたカガヤキローマンだったが、このあと長期休養を余儀なくされた。連戦の反動で古傷が再発したのだった。「4歳の時、CBC賞(中京芝1200m)へ使いに行ったんだが初めての芝な上に、雨。スタートでつまずいてしまった。レース後、ねんざと診断されたんだがこの時のダメージが尾を引いてね。6歳で東京シティ盃勝ったあと一気に反動が出た。北海道で川に脚を浸す治療を続けたんだけど、痛めた靱帯が良くなるのに思った以上にかかってね。1年かけて復帰したが以前ほどスピードを出せなくなっていた。7歳、8歳と年齢を重ねるにつれ、馬自身もどこか闘志を欠くようになっていったね」と高柳恒男調教師。

 丸1年休養に充て、復帰戦は翌年の東京シティ盃。ダッシュ良く飛び出したものの、直線は見る影もなく失速していった。「同じように逃げたんだが、以前のスピード感はなくなっていた」(森下騎手)と前年圧勝したカガヤキローマンはもうそこにはなかった。

 「それでもチャンスを求めて全国使えるところはどこへでも行ったよ。当時は今ほど南関東に短距離レースはなかったから行くしかなかった。馬体もしなやかで繋ぎが柔らかいから短距離に合ったんだよね。でも以前のように勝ち星には結びつかなかった。あの時CBC賞に使いに行かなければ、つまずかなければ脚元がもっと無事でいられたのかと悔やんだものだよ」と高柳調教師。

 7歳の秋、上山・ラフランス賞への遠征を機に上山競馬へと移籍。上山競馬が廃止されると10歳で北海道へと移った。引退したのは11歳の冬。種牡馬になることも叶わず、限界がやってくるその日まで走り続けたカガヤキローマン。12の競馬場を股にかけ、18人ものジョッキーが手綱を握った。もしカガヤキローマンが年間を通して短距離戦線が整った今の時代に駆っていたら・・、想いを馳せずにはいられなかった。


第9回東京シティ盃 カガヤキローマン号

中川明美 (競馬ブック)

※この原稿は、過去のレーシングプログラムに掲載されたものに、加筆・訂正を加えたものです。