重賞名馬ストーリー

重賞名馬ストーリー vol.16

大井が生んだ怪物 ハイセイコー ~ハイセイコー記念~

 「国民的アイドルホース」と社会現象になるほど人気を博し、競馬ブームの火付け役となったハイセイコー。怪物級の強さばかりでなく、大井から中央へ移籍して堂々クラシックを制し、タケホープやタニノチカラといった当代の人気馬に真っ向から挑みかける野武士的活躍が、高度成長期にあった人々の心をいっそう惹きつけたのだろう。

 ハイセイコーが大井に入厩したのは1歳(現表記)の9月。当時は人や鞍を初めて乗せる馴致の段階から厩舎で教え込むのが当たり前。まれにみる気性の激しさからまともな調教ができるまでに二ヶ月かかったというが、そこから重戦車のような馬力型の馬体へと成長を遂げるのは早かった。馴致や調教を担当していた高橋三郎騎手(現調教師)は「馬格や風格が一頭だけ違っていて、同じ若馬同士のはずが『大人と子供』に見えた」と振り返る。

 父はチャイナロック。母のハイユウは息子と同じ伊藤正美厩舎に所属しA3クラスで走っていた。その祖母は大井競馬が昭和27年に輸入した豪サラ牝馬の一頭ダルモーガンという大井ゆかりの血統である。ハイセイコーの存在はデビュー前から評判を呼び、能力試験の段階からマスコミが押し寄せ、この頃すでに中央の調教師から引き合いが始まっていたという。

 昭和47年7月12日新馬戦で競走馬としてのスタートを切った。実はこの時が「2度目」の新馬戦。6月にデビューする予定が、ハイセイコーの出走により回避馬が相次ぎ、「最初」の新馬戦は不成立になってしまったのだ。手綱を取ったのはまだ減量騎手だった辻野豊騎手(現調教師)。「速すぎて気持ち悪いくらいだった。スピードが乗って3、4コーナーでは馬体が斜めになるほど。馬上でバランス取るのに精一杯で追うどころじゃなかったね」とハイセイコーは馬なりのまま8馬身突き離してレコードデビューを飾った。辻野騎手がその後の浦和競馬で鎖骨骨折を負ったことから福永二三雄騎手へと手綱は委ねられたが、16馬身、8馬身、ゴールドジュニアーでも10馬身と快進撃は続いた。

 高橋騎手がレースで乗ったのは5戦目の白菊特別から。この日のハイセイコーは万全の体調ではなかった。しかし、ハイセイコーの人気はうなぎ昇りで、すでにスタンドが真っ黒になるほど大勢のファンが詰めかけている。「この時は肋骨を7本折り、肺を損傷する怪我から復帰したばかりの騎乗で自分の身体も思うようにいかないのに、これでハイセイコーが負けたら大変な騒ぎになる。絶対に負けるわけにはいかない、とあの時のプレッシャーは今想い出しても身震いするくらいだよ」。初めてレースで目一杯に追われると7馬身ちぎった。

 続くは2歳重賞「青雲賞」。「もちろん一本人気で、スタンドを見るとファンで埋まってる。ところが、いざゲートインになると同枠のオーナーズミカサがウンともスンともゲートに入ろうとしなくてね。競走除外になるほどだったんだけど、当時は連勝は枠番しか売っていなかったから除外馬が出ると『友引』といって同枠の馬も取り消されてしまう決まり。ハイセイコーが取消されては一大事、と必死になってゲートに入れるまで15分。いやもっとかかったな。ハイセイコーを走らせるためにみんな必死だった。ようやく入って、スタートして3番手。3コーナーでスパートすると、全く危なげなかった。ハイセイコーは大型で跳びも大きい分、ダッシュ力のあるタイプじゃない。そのかわりいったん加速がつくと、スピードアップして引き離してしまう」。7馬身の圧勝だった。

 6戦6勝で移籍したハイセイコー。中央では16戦7勝。皐月賞や宝塚記念など重賞7タイトルを制して怪物ぶりを発揮していくが、生涯22戦したうちの19戦は一番人気に推されていた。引退して種牡馬となってからもカツラノハイセイコ、ハクタイセイ等を出し、大井では高橋騎手を背にキングハイセイコーやアウトランセイコーが東京ダービー馬となって、その名を、その血を繋げた。

 2000年5月に31歳で天寿を全う。2001年からはハイセイコーの軌跡である「青雲賞」は「ハイセイコー記念」と改称された。

中川明美 (競馬ブック)

※この原稿は、過去のレーシングプログラムに掲載されたものに、加筆・訂正を加えたものです。