TCKコラム

TCK Column vol.10

南関東初の3冠馬ヒカルタカイ

2003年の東京シティ競馬も早や春シーズンを迎えていますが、早春になると、1頭の名馬を思い出します。大井競馬が生んだ初の3冠馬ヒカルタカイです。今から36年前の1967年(昭和42)の春、素晴らしい強さで、羽田盃、東京ダービーを楽勝すると、秋の東京王冠賞でも優勝。史上初めて”大井の3冠”を制覇しました。ヒカルタカイはその後、中央入りして天皇賞・春と宝塚記念にも勝って天下を取りました。大井の名馬を語るとき、ヒカルタカイを語らずしてその歴史は語れません。
第5回は今では”伝説の名馬”となったヒカルタカイの痛快なエピソードをお届けします。

大井競馬で3冠レースという体系が確立されたのは1964年(昭和39)のこと。それまで東京ダービーと羽田盃はあったが、3冠目の東京王冠賞が作られたのが1964年であった。

ヒカルタカイは3冠レースが出揃った1964年4月9日に、父リンボー、母ホマレタカイを両親に、北海道新冠の吉田勇牧場で誕生した。小さな馬舎と放牧地があるだけの農家で、繁殖牝馬はホマレタカイのみ。したがって生まれた産駒もヒカルタカイ1頭だった。ホマレタカイ(父ハクリヨウ)は大井の抽選馬で3歳時7戦0勝。母系は3代さかのぼっても活躍馬は皆無の三流血統であった。

リンボーは米国から競走馬として輸入され、大井で23戦9勝の成績を残して種牡馬となったが、米国の誇りマンノウォー(1917年生まれ、21戦20勝)の血を受けており、ヒカルタカイはその偉大な遺伝子で眠れる血が目覚めた。ヒカルタカイは血統が悪いため「160万円」と評価されたが、子分けなので高井正子氏の所有馬としてわずか80万円で1歳暮れに大井の鏑木文一郎厩舎に入った。

当時のヒカルタカイは顔が大きく、首の短かいアラブのような体形でお世辞にも見栄えはしなかった。ただ悍性が鋭く、丈夫で、トモ(後ろ足)が逞しく、バネがあった。普通、蹄鉄は3週間ほどで打ち替えるのに「ヒカルタカイは2週間しか持たなかった」と故・鏑木氏は語っていた。

2歳7月8日に竹山隆(現調教師)が乗ってデビューし、2着馬に8馬身差をつけて楽勝すると2、3戦目も快勝。その後オープンと3歳(現2歳)特別は2着だったが、続く地元の青雲賞と川崎の全日本3歳(現2歳)優駿で楽勝し軌道に乗った。年が明けて浦和のニューイヤーC(2着)と中距離特別(3着)で連敗したが、この後は無敵の5連勝。黒潮盃を制したあと5月1日の羽田盃(2,000m)は3コーナーから勝負をかけて逃げ、ビューティブラザーに3馬身差をつけてまず1冠。6月5日の東京ダービー(2,400m)は好スタートから飛び出すとマイペースで逃げ、4コーナーでは2番手を10馬身以上離して独り旅。434kgの鹿毛の馬体を弾ませながら直線でさらに加速し、2着ビューティブラザーに12馬身の大差をつけて2冠を達成した。

「うまく出たので馬なりのまま先頭に立てた。直線入口で手応えから勝利を確信したが、でも後ろの足音が聞こえないので無気味でしたね。後肢の蹴りの強い馬で、全身バネで走る感じ。性格も素直で”ホラホラ”という指示通りに動いた馬です。あの年では群を抜いていましたね。あんな凄い馬は最近いません。生涯忘れられない名馬でした。」と竹山師(64歳)は当時を振り返った。

11月5日の3冠最終関門の東京王冠賞(2,400m)は成長著しく、444kgで万全だった。ただ主戦の竹山隆が落馬事故で兄弟子の須田茂(現調教師、75歳)が乗り替わった。ヒカルタカイは逃げるビューティブラザーの2番手につけると3コーナーで先頭に立ち、ゴール前追い込む赤間清松のマーブルアーチに1馬身半差をつけて記念すべき初3冠のゴールに入った。

「赤間の馬が連戦連勝中で勢いがあり、後ろからいつ襲ってくるか怖かった。何とか我慢してくれたが危なかったね。あとで赤間が”須田茂じゃなきゃ負かしたんだけどな”と言ってきた。とにかくホッとしたことを覚えてます」と須田師は35年前の秘話を懐かしそうに語ってくれた。

ヒカルタカイはその後、暮れの東京大賞典で2着し、年が明けた4歳1月4日の新春盃でマーブルアーチに東京王冠賞の雪辱をされ2着になったのを最後に中央入り。地方の成績は20戦12勝2着5回3着3回だった。

東京競馬場の藤本冨良厩舎入りした。ヒカルタカイは中山のオープンを2回、京都のオープンを1回(いずれも2着)たたき、3戦未勝利のまま4月29日の京都の第57回天皇賞(3,200m 9頭立て)に挑戦した。野平祐二騎乗で圧倒的1番人気に支持された。ニホンピロエースが逃げ、外にヤマニリュウがつけてヒカルタカイは3番手。2周目の1コーナーでヤマニリュウが先頭を奪うとヒカルタカイも早めに仕掛けてすぐ後ろにつけた。ヒカルタカイは3コーナーの坂下から外に持ち出すと一気に先頭を奪った。ペースをあげた野平祐二は後続を引き離し、残る3ハロンを無人の野を行く如くに駆け抜けた。一瞬にして他馬との差は8馬身、9馬身、10馬身・・・と広がり、ゴールでは天皇賞史上珍しい18馬身、距離にして43mの差がついていた。

まさに天馬空を行く軽やかさで、ヒカルタカイ1頭だけの天皇賞パレードだった。2着タイヨウの目野哲也騎手は「あほらしい」と捨てゼリフを残し、ヒカルタカイの怪物ぶりに唖然とした。「ごらんの通りです。いいレース(接戦)をしたかったが、相手を待っているわけにはいきませんからね。私はなんの苦労もせず、いかに勝つかを考えて乗っていたら馬が自由に走ってくれました。」と野平祐二(故人)は語った。

ヒカルタカイはこの1ヵ月後に同じ野平の手綱で阪神の宝塚記念2,200mに出走し、オンワールドヒル、シバフジ、カブトシローらを一蹴して2分14秒7の日本レコードで優勝している。野平は「天皇賞、宝塚記念に限れば競走馬として完成された非の打ちどころのない最強馬でした。ヒカルタカイは弾力があり、すべてに大きく見せる男性的な馬でした」とつけ加えている。この後は6戦したが、オープンの1勝だけ。中央では11戦3勝2着5回着外3回で競走成績にピリオドを打った。

1970年から門別のランチョ・トミカワで種付料15万円で種牡馬となり、以降1963年まで244頭に付け、91頭の産駒を出した。産駒では1972年生まれのベゴニヤ(桜花賞馬ダイアナソロンの母)が目立つ程度。82年から苫小牧のランチョ・トマコマイで余生を送っていたが、老齢になっても後肢は特に逞しく、張りがあった。しかし1990年6月10日、老衰のため死亡した。26歳だった。今では”伝説の名馬”を覚えている人も少なくなった。

横尾 一彦
日刊スポーツ時代(98年退社)に編集委員として競馬コラム担当。フリー・ジャーナリスト。
中央競馬会の「優駿」コラムニスト。「サラブレッド・ヒーロー列伝」を103回にわたり長期連載。