TCKコラム

TCK Column vol.02

大井が生んだ大スター、怪物ハイセイコー

 夢の400万馬券が飛び出すなど今夏のトゥインクルレースは3連単・3連複の新馬券登場で盛上がっていますが、東京シティ競馬の歴史は古く、過去には数々の名馬が出現しています。そこで大井競馬場を走った思い出のサラブレッドを競馬コラムニストの横尾一彦氏に連載で紹介していただきます。第1回は大井が生んだ最高のスター、ハイセイコーです。

 ハイセイコーは大井競馬場が生んだ空前絶後の名馬であるばかりか、日本競馬史上における不滅のアイドルであった。今日でこそ競馬はレジャー・スポーツとして市民権を得ているが、1970年代前半までは一般の人には単なるギャンブルと見られていた。
60年代後半、戦後初の3冠馬に輝いたシンザン、名人野平祐二とのコンビで欧米に遠征したスピードシンボリ、無敵の快進撃で初の1億円ホースとなったタケシバオーらが出現した頃からブームの兆候はあったが、それでも競馬専門紙を見ていると白眼視される時代であった。
72年、ハイセイコーが出現してようやく「私は競馬ファンです」と胸を張れる時代がやってきた。
その真摯な走りに幼稚園児からお年寄りまでが「ハイセイコー」の名を呼び、熱狂した。
少年雑誌の表紙に登場し、ルバング島のジャングルで小野田寛郎元少尉が母国からの短波放送で、その名を知ったというエピソードも有名だ。ハイセイコーは実は競馬が市民権を得るきっかけを作った功労馬でもある。
 野の花が無心に咲くように彼は一筋の気持ちでデビューから引退レースまでの3年間を黙々と走り続けた。ハイセイコーは70年3月6日、北海道新冠町高江の武田牧場で誕生した。父は英国産のチャイナロックで、母はカリムの娘ハイユウという血統の黒鹿毛馬である。
 生まれたときから馬格があり、ひときわ目立つ存在で、「追い運動で、一度も仲間に先頭を譲ったことがない。ケガや病気一つしない丈夫な馬で、日高の3本の指に入るサラブレッド」(武田隆雄氏)と期待された。
 72年、2歳夏に大井競馬でデビューするとたちまち6戦6勝。初出走は雨の中、馬なりの独走で1000Mを59秒4の快時計。それまで公営競馬史上最強といわれたヒカルタカイ(のちの天皇賞馬)のレコードを0秒8も更新した。2戦目、3戦目もぶっちぎりの楽勝。4戦目のゴールドジュニアでは1400M1分24秒9で再びレコードの大差勝ち。5戦目の白菊特別も馬なりで圧勝し、6戦目の重賞の青雲賞(現在のハイセイコー記念)では、2着に7馬身差で快勝した。これで白星が6つ、いずれも追うところのない完璧の内容だった。
 それまで管理していた伊藤正美調教師には、「これだけの名馬を手放したくない」という思いと「馬のためには日本ダービーに挑戦させたい」という相反する苦悩があったが、ハイセイコーの真の強さを証明するためには中央入りは仕方がなかった。厩務員の山本武夫さんは「こんな強い馬と別れることになってしまって悲しい」と言い、突然雲隠れしてしまった。
 ハイセイコーは年が明けた73年1月にホースマンクラブに5000万円でトレードされ、東京競馬場の鈴木勝太郎厩舎に移籍した。
 増沢末夫との新コンビで弥生賞、スプリングS、皐月賞、NHK杯と勝ち進んで驚異の10連勝。5月6日のNHK杯では東京競馬場に新記録の16万9174人のファンが入場し、ブームは頂点に達した。
 「ハイセイコーがまた勝ちました。さあ次は日本ダービーです。私たちの英雄に声援を送りましょう」NHK杯のゴールイン直後に開催中の大井競馬場のウグイス嬢が異例の放送をした。
 ハイセイコーは日本ダービーで2冠目を狙った。だが、史上最高66.6%の単勝支持率の大本命馬はタケホープの3着に沈んだ。勝者はいつの日か敗れるが、その日が早過ぎた。
 「外から並ばれたとき、駄目だと思った。馬が苦しがっていた。今日は大人しすぎた。使い詰めできた目に見えない疲労かな」と増沢末夫は首を傾げた。
「ハイセイコー、ハイセイコーと声援してくれた子供たちの夢を破ったことがつらい」と、大場博厩務員は涙した。
 サクセスストーリーは完成しなかったが、ハイセイコーには五分の魂があった。秋の菊花賞もタケホープの2着と惜敗したが、4歳になると中山記念、宝塚記念、高松宮杯を勝って中距離の王者に君臨した。ラストランの有馬記念ではタニノチカラの2着に入線し、宿敵タケホープに先着する意地を示した。
 公営と中央を合わせて22戦13勝。総収得賞金は当時としては破格の2億1956万6600円。引退に際して増沢末夫でレコード化した「さらばハイセイコー」は一説では50万枚近くも売れたという。
 北海道新冠の明和牧場で種牡馬入りしたハイセイコーは初年度産駒のカツラノハイセイコが日本ダービーと天皇賞に勝ち、父のうっぷんを晴らした。他にもハクタイセイ(皐月賞)サンドピアリス(エリザベス女王杯)キングハイセイコー、アウトランセイコー(ともに東京ダービー)らのGIホースを出して内国産の人気者となった。
 75年春の種付け開始から95年の21年間にハイセイコーは1002頭の繁殖牝馬と交配して703頭の産駒を送り出している。ハイセイコーが種牡馬入りすると明和牧場周辺は観光バスが行列した。競馬ファンと馬産地を結びつけた功績も大きかった。95年限りで引退して静かな余生を送っていたが、2000年5月4日心臓麻痺のためにこの世を去った。31歳の大往生だった。
 死ぬ2ヶ月前に牧場を訪れた時ハイセイコーはファンから送られた格子縞の馬服に身を包んで雪の中に放牧されていた。額の星の周囲と眼元に白い刺毛(さしげ)が出て、寄る年波は隠せなかったが、1日3回食欲もあり、まだ長生きしそうな印象だったが・・・・・。

 今や伝説の名馬になってしまったが、暗い社会情勢を背景にドラマチックに生きた”昭和の怪物”を人々は忘れない。

横尾 一彦
日刊スポーツ時代(98年退社)に編集委員として競馬コラム担当。フリー・ジャーナリスト。
中央競馬会の「優駿」コラムニスト。「サラブレッド・ヒーロー列伝」を103回にわたり長期連載。