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帝王賞がスタートしたのは1978年で、当初は南関東限定。1~4回の勝ち馬はローズジャック、ハツマモル、カツアール、アズマキング。後に中央入りして宝塚記念を勝ったカツアールは異色の存在で、基本は重量級の面々のパワー勝負。それはそれで迫力満載ですが、ヒカルイマイやタニノムーティエの強烈な追い込みに魅せられて競馬に引き込まれた私としては、地方競馬班に配属されて間もない頃でもあり、今ひとつ馴染めないものがありました。

1980年も押し詰まった頃、シーズンオフに伴い上山競馬から1頭の牝馬が大井・遠間波満行厩舎に移籍してきました。それがコーナンルビーです。

初めてパドックで見た時、冬毛ボサボサ。馬格はそれなりにありましたが、あまり見映えせず。また血統が逆の意味でインパクト大。母父リマンドは地方競馬でも多くの一流馬を送り出していましたが、母方はサラ系でアラブに繋がる血脈。しかも父がダテホーライ。シンザン以外のいわゆる内国産種牡馬は日陰の存在だった当時にしても超地味、渋すぎる。

その後も隅田川賞1着、新春盃1着と上の世代を相手に結果を残し、いよいよ迎えた帝王賞。課題とされたのは距離の克服です。というのも二四の東京ダービー7着、二六の東京王冠賞6着と着順を落としているから。この当時は二八で行われていた帝王賞。逃げてもスタミナが保つか評価の分かれるところでしたが、結果は強豪アズマキングの追撃を振り切って逃げ切り。力の要る地方の馬場で小細工なしのスピード勝負。名実ともに南関東の最高峰へ。

後に逃げの名手、牝馬に強いと謳われた堀千亜樹騎手ですが、正に将来を暗示するようなコーナンルビーとの出会い。また私にとっても興味のメーターが地方競馬に揺り動く契機になりました。

ケイシュウNEWS 吉羽 孝