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imageRace History

〜イナリワン〜

 かつてテレビのインタビューで武豊騎手が『平成3強』と謳われた同世代のビッグネーム達をこの様に評している。調子の良し悪しに関係なく、好凡走がない交ぜのオグリキャップを「何を考えているのか分からない馬」。スーパークリークを「大人しくて、とても乗りやすい馬」。そして本編の主人公イナリワンにはひと言。「怖い」と。

 3頭の手綱を取った男の興味深い喩えだが、ことイナリワンに関して誰よりもその言葉に共感を抱いたのは、おそらく大井時代に主戦を務めた宮浦騎手(現調教師)であろう。

 「自分が調教をつけていた頃に暴走するようなことはなかったけれど、掛かり癖が強くて、いつ爆発するかわかったもんじゃなかった」と、ジョッキーとして二年半苦楽を共にしたパートナーを思い返す。

 出会いは故・福永二三雄調教師を介して。デビュー前の若駒を連れてきて「緩さは残るが、絶対走るから乗ってみろ」と勧められた。ところが角馬場に出してみると躓くばかりで、まともなキャンターにならない。「こりゃ、参ったなぁ…」と、宮浦騎手も困惑を隠せなかったようだが、いざ外馬場に出してみると一変。「跳びが大きな馬だから、小さい角馬場では本当に危なかった。それがのびのび走らせてみると全身を使って走るし、パワーも凄かった」。

 デビューは昭和61年の暮れ。福永調教師が見込んだ原石は翌年にかけて8戦無敗のままシーズンを終了。確かな輝きを放ち始める。

 しかし、大賞典へ向かう勝負の年、昭和63年が始まると、勝ち切れないレースが続いてしまう。金盃を皮切りに③⑦⑤③②着。これが壁なのか…。多くの関係者が天井を意識し始めていたが、イナリワン陣営は違っていた。

 明確な敗因がある。それは「馬格以上に跳びの大きい馬だから、下(砂)をキッチリ掴める馬場じゃないと能力が半減してしまう」。確かに前半戦は雨馬場続きの不運が続いていた。

 更に苦手な馬場での疲労も蓄積して、一時的な悪循環に陥ってしまったようだ。しかし後半戦、徐々に立ち直りの兆しと馬場への順応を見せ始め、東京大賞典の前哨戦にあたる笠松の全日本サラブレッドC②着で宮浦騎手は復調の自信を得ることになる。「レースは負けたけれど、あれは自分のミス。小回りを意識して3コーナーで早目に先頭に立ったんだけど、4角を回って少し後続を待ってしまった。イナリワンはあの跳びだから仕掛けてから1、2歩目では反応せず、3歩目辺りでダーンと伸びる馬。その仕掛け遅れを、コースを熟知している安藤勝己のフェートノーザンに突かれてね…」。

 そして地元大井での総決算。イナリワンの可能性を信じる陣営は「ここを勝ったら中央に移籍。そして天皇賞を目指す」と公言。必勝の気構えで臨んだ。

 当時の大賞典は3000メートル。現在の千四ポケット地点からの発走。馬場状態は良、枠順も2枠でお膳立ては揃っていた。「長距離戦はやはり我慢比べ。特にイナリワンは折り合いが難しいから、スタートを五分に切ってある程度の位置を取ってからは、息を殺すように乗っていた」。勝負処をソツなくこなして直線勝負。インで一歩先に抜け出したのが②着に残るアラナスモンタ。「前も止まっているわけじゃないんだよ」と宮浦騎手が注釈を加えてくれたが、イナリワンはそれを上回る。③着には7馬身の差をつける完封劇だった。

 転籍後の活躍については余白がないので簡単に述べるが、天皇賞、宝塚記念を見事勝利、更には有馬記念をも勝って、ダブル・グランプリ制覇を達成する。

 エピローグに数年前、イナリワンの大井競馬場での里帰りお披露目の話を。

 主戦の宮浦騎手が勝負服を身にまといファンの前で馬上の人となったが「馬場を一周」のリクエストを拒否。「もう20何歳になっていたと思うけれど、競馬場に戻ってきたら何をしでかすかわからないからね。厩務員に引いてもらってのお披露目で我慢してもらったよ」と、目を細めながら語り終えた、
イナリワンは本年、繋養先の牧場で32年の生涯を全う。老衰と聞く。

ケイシュウニュース 高橋孝太郎