ジャパンダートダービー

名馬ヒストリー

 “個性派”と称されるような、ひと癖ある馬に惹かれがちである。

 大逃げを打つような韋駄天だったり、最後方からゴボウ抜きですっ飛んでくる追い込み馬だったり。いつ捕まってしまうのだろうか、もし脚が届かない展開になったら、と個性が強いほど道中はハラハラドキドキ。それが決まったときの爽快感は堪らないものだ。

 オリオンザサンクスを見ている時、いつもそうだった。

 北海道で栄冠賞を勝って鳴り物入りで大井にやってきた快速馬。南関東のクラシックを睨んでの転入は王道路線だが、「調教がまともにできない」という課題を抱えていた。道営時代には誰もまだ馬場入りしていない深夜のうちに調教が行われていたというから相当な問題児でもあったのだろう。

 オープン馬の宝庫だった赤間清松厩舎の中でもハシルショウグンやジョージモナーク等を手がけて重賞20勝以上している腕利き厩務員の関喜一さんに委ねられた。関さんはパートナーに早田秀治騎手を選んだ。

 緒戦が全日本3歳優駿(現在の全日本2歳優駿)に決まり、トレーニングが始まったが、馬場の中でもいったんスイッチが入ると暴れてロデオ状態。初めて走る左回りとあって、川崎コースまで運んでスクーリング(環境に慣れさせること)もしたが、コーナーを回りきれず大きくふくれてしまった。陣営は時間をかけた。

 まずは角馬場で慣らしてだんだんと内コースに出し、追い切りの時だけ本馬場といわれる外コースで調整を重ねた。

 全日本3歳優駿ではまさかの大外枠。これではスクーリングの時の二の舞になってしまうと考えた早田騎手は逃げ馬オリオンザサンクスに好位で抑える競馬を課した。結果は大敗だったが、「あの枠では抑えなければ危険だと思ったがあれで反対にサンクスのスピードを知ることになった」と早田騎手は語った。二戦目の若獅子特別からは引っ掛かって止まらなくなろうと馬が行きたいように逃がした。「乗ってるときは常に折り合いとの闘い。でも結局レースで折り合いがついたことは一度もなかったね。サンクスはスタートが速いんじゃなくて、二の足がすごい。最初のコーナーに向かいながらグングン加速スピードをあげていく。この速さは自分がいろいろ乗ってきた馬の中でも抜群だね」。

 交流元年とされる1995年からダート界は大きく変わったが、1996年に南関東では秋に行われていた第三冠の東京王冠賞(2001年で廃止)が春へと移行。南関東馬にとっては三冠に加えてジャパンダートダービーが1ヶ月ごとに実施される過酷な闘いでもあった。

 すっかりオリオンザサンクスを手の内に入れた早田騎手。羽田盃、東京ダービーも逃げ切って二冠馬として堂々ジャパンダートダービーへと向かった。

 第1回ジャパンダートダービー。中央から3頭、名古屋から1頭、笠松から1頭、新潟から1頭、そして南関東からは9頭。人気はオリオンザサンクス、中央のタイキヘラクレス、船橋のオペラハットと続いた。

 オリオンザサンクスは逃げた。グングン引き離して20馬身以上。この大逃げにスタンドはドッと沸いた。3コーナーを回っても後続との差はまだ10馬身。ようやく脚いろが鈍った頃にはすでにレースは決着していた。

「馬は気分良く逃げていたけど、こっちは折り合いがつかなくて抑えているうちに手が痺れてしまったよ。最後の200mでパタッと手応えがなくなって、いやあ、もう、いつ捕まるかと必死だった」と早田騎手は満面の笑みで答えた。

 古馬になってからは苦戦を強いられることも多くなったが、2000年秋に創設されたジャパンカップダートにも果敢に挑戦(15着)。稀代の個性派は時代の先駆者でもあった。

■オリオンザサンクス
生年月日 : 1996年4月10日
血統 : 父 シャンハイ
母 ミラノコレクション
生涯成績 : 24戦11勝
主な勝鞍 : 第22回 京浜盃(G2)
第44回 羽田盃(G1)
第45回 東京ダービー(G1)
第1回 ジャパンダートダービー(GI)(G1)
第2回 フロンティアスプリント盃(G3)
競馬ブック 中川明美