レースヒストリー

ミヤサンキューティ(2012年1着)

鈴木啓之師が騎手から調教師に転身して間もない2009年、牧場で1頭の芦毛の当歳馬に出会う。この仔馬が後にミヤサンキューティと名付けられ、優駿スプリント競走、東京シンデレラマイルの2つの重賞タイトルを獲ることになろうとは、この時は知る由もなかった。

順調な2歳馬たちが春先からどんどんデビューを果たす中、ミヤサンキューティが初めて競馬場で人々の歓声を耳にしたのは年末も押し迫った2010年12月28日だった。 「当初育成牧場でトレーニングを積んでいたけど、560キロくらいある大型馬ということもあって脚元も安定していなかった。それで、厩舎に入厩させて調整することになったけど、焦らず焦らず馬に合わせて半年かけてようやくデビューできるまでになった」という。

調教も師がつけていたそうだが、「これまで色々なOP馬に乗ったけど、ミヤサンキューティは馬も硬めだったし、そこまで走るとは思わなかった。正直なところ、もう一頭の2歳の方が期待していたよ」という評価が覆ったのが、当時小林分場に厩舎を構えていた鈴木師がミヤサンキューティとともに大井に追い切りに来た時。 併せた古馬を煽り、周囲をあっと言わせたのだ。

能力試験を受けてからは更に素質の高さを見せるようになり、新馬戦からその後タッグを組むことになる真島騎手が騎乗し期待に応えての快勝だった。 この勝利によって、桜花賞を視野に入れ2戦目は浦和へ遠征することとなったが、周りを気にして進まず7着に敗れ、目標を優駿スプリントに切り替えることとなった。

優駿スプリントのトライアルレースであるすずらん特別では出遅れて後方7番手からの競馬になってしまったが、それでもメンバー最速の上りを叩き出して2着と健闘。 優駿スプリント本番を前に「トライアルでは出遅れが響いたが、スタートさえ決まれば自在性はあるから…」と考える。 ゲートが開くと、トライアルを勝ち1番人気に支持されていたロードガバナンスがまさかの出遅れ。一方、ミヤサンキューティは五分にスタートを決める。好位の外目につけると、最後の直線で前にいた馬たちを捕らえ、そのまま先頭でゴール。 師は「絵に描いたようなレースを真島騎手もしてくれた」と讃えた。

4歳となった同馬は、2012年7月25日に行われたスパーキングサマーチャレンジの後、暑さが苦手ということもあって北海道で休養することとなる。 この時から年末のシンデレラマイルを視野にいれていて、師は2度ほど北海道まで乗りにいった。

しかし、本番には若干ローテーションが狂い調教が足りない状態で挑むこととなってしまい、メンバーも揃っていたことからも師は全く自信が持てなかった。その心の内を表すかのように、ミヤサンキューティの評価は10番人気と低いものだった。「次に繋がるレースができれば…」そんな気持ちで、ミヤサンキューティを送り出す。

2012年12月30日、年の瀬も押し迫った大井競馬場には冷たい雨と風が吹き付け、馬場は水が溜まっていた。 ゲートが開くと騎乗していた真島騎手は、外枠から内に進路を取り先手を主張。それを交わしたエンジェルツイートがハナに立ち、その2馬身後ろを追走する形となった。4コーナーを向くあたりでエンジェルツイートに並びかけると、直線半ばで突き放し芦毛の馬体がゴール板を先頭で駆け抜けた。 師は「正直息が保つかも心配だった。不良馬場で追い込みが利かない馬場だったし、良馬場だったら結果は違っていたかもしれない。運も味方した」と思ったという。

2014年秋に引退したミヤサンキューティの競走馬生活を振り返り、「力のある馬だったけど、重賞二つに関しては絵に描いたような理想的なレースをしてくれた」と同馬が残してくれた重賞の肩掛けを背に、感慨深そうに語った。


豊岡 加奈子
1981年4月1日生まれ。
北海道函館市出身。

8年半総務省で勤務した後、競馬の 仕事に就きたく退職。
2012年06月~競馬専門紙「勝馬」地方版記者。
競馬を始めたのは、2009年の皐月賞前日に中山競馬場付近で犬の散歩をしていたところ、前日から並んでいる方々を見て「競馬は単なるギャンブルではなく奥深いスポーツなのだ」と思い、皐月賞当日、一人で中山競馬場に足を運んだことがきっかけ。