レースヒストリー

 キーワードは『1200×2=2400』。平成7年、東京ダービーに臨むジョージタイセイ陣営が、必勝を賭した作戦名のことだ。

 話は追って進めるが、その作戦内容に触れる前段階として、3つの経緯、状況を知っていただく必要がある。

 まずひとつ目は、ジョージタイセイの秘める、絶対能力の高さ。デビュー戦こそ調整不足で5着に敗れているが、その後6連勝。特に、3戦目で一気に距離が延びた千四戦を楽勝した時に「こいつ、スゲー」と、藤村騎手が感嘆、大きなタイトルを意識させている。これは終生タイセイのストロングポイントとなり続けたことだが「とにかくレースの天才。鞍上が使うムチや脚の扶助が、最小限の動きで確実に反応してくれる。その後も競馬界に身を置いて色々な馬を見続けているけれど、あんな馬はちょっと見当たらない」。

 ふたつ目に重要なことは、クラシック戦線において、3強と並び評価されたライバル達の存在である。浦和のヒカリルーファスはタイセイと黒潮盃で直接対決するまで5戦無敗。スピードスターの名を欲しいままにし、実際、東京ダービーでは一番人気に推された快速馬だ。そしてもう一頭がコンサートボーイ。道営から鳴り物入りで川崎の鈴木敏一厩舎へ移籍。クラシックでは『善戦マン』の不名誉な称号を受けながらも、古馬になって大成。統一グレード初代王者、地方競馬獲得賞金ランキング歴代1位(当時)など、南関ファンにとって思い入れの深いビッグネームへと成長していった。

 そして最後の舞台装置。それはクラシック一冠目、羽田盃でそのライバル2騎に遅れること3着に敗れていること。藤村騎手は「慢心があった」と猛省するが、ヒカリの逃げ切りを許した上、後続のコンサートにも差し込まれる屈辱的敗戦----。

 ここに至って管理する武森調教師、藤村騎手ら、ジョージタイセイ陣営による大一番・東京ダービーでの雪辱戦が始まる。師弟がミーティングを重ねること幾数度、最終的に武森調教師が藤村騎手に指示した騎乗法。それは「2頭同時に相手にしようとするから難しくなる。前半の1200を先行するヒカリルーファスと、後半1200をコンサートボーイとの戦いに充てる」。何とも思い切った発案。当時のダービーは2400メートル。その前後半戦で、異なる相手一頭に的を絞り込んだ『1200×2=2400』作戦だった。

 そして当日。ここからは藤村騎手の回想で振り返ってもらう。「自分はその年、まだ二桁勝利にも達していない若輩。羽田で負けた時に乗り替わりも覚悟していただけに、起用を続けてくれた武森調教師には言葉もないほどの感謝を抱いていた。レースはタイセイが3枠⑥番、ヒカリが6枠⑪番。元々スタートの反応も良かったので、楽にヒカリのハナを叩くことができた。けれど、ペースの落ち着く一周目スタンド前で竹見さん(ヒカリルーファス)が先頭を奪いに来るのは織り込み済み。無理せず譲ったけれど、この段階で相手に脚を使わすことに成功したのは大きかった。そして終盤。特に残り600、勝負処で各馬が一気にスパートする地点。自分はほんの一瞬、仕掛けを遅らせることにした。その時点でコンサートに並ばれていたら勝負はわからなかったけれど、幸いまだ相手と差があったので、これならイケるという手応えがあった。まぁ、残り100でナイター照明に伸び切った影に驚いた自分が、かなり慌ててしまうんだけれど、冷静に振り返ってみれば、完勝と言える内容だった」。

 当日、大井競馬場を埋め尽くしたファンは4万7千人。藤村、タイセイのウイニングランを「地鳴りの」歓声が包んでいた。そして両者を迎えた武森調教師。東京ダービーだけでもシンオウ、ハナキオーで2度制している名伯楽だが、藤村&ジョージタイセイで制したこの一度限り、頬を涙で濡らしていたという。

ケイシュウニュース 高橋孝太郎