重賞名馬ストーリー

重賞名馬ストーリー vol.20

北関東最後の女傑ベラミロード ~TCK女王盃~

 第4回TCK女王盃を勝ったのは宇都宮から参戦したベラミロード。2000年NARグランプリ年度代表馬、最優秀牝馬、最優秀短距離馬という輝かしいタイトル引っ提げて臨んだレースがTCK女王盃。宇都宮競馬はその後2005年3月に廃止され「北関東最後の女傑」として永遠にその名を残すことになった。

 「牧場から来て初めて乗ったときはあまりにおとなしいくて虚弱体質なのかと心配になったくらい。調教を重ねて、いざ追い切りになるとガラリ違った。初めての追い切りの時は速い馬を相手に併せ馬したんですが、3コーナーでは相手がついてこれないほどベラミロードが速くてね。乗り味の良い馬というのはまったく鞍上を疲れさせないものなんですよねぇ(笑)」と語ってくれたのが生涯27戦中26戦の手綱を握った内田利雄騎手。

 デビューした頃はのちにイメージされる弾丸スタートとはほど遠く、スタートはモタモタ。それでも二完歩目からの速さで破竹の5連勝を飾った。「そのあと彼女には転機があった。中山のフラワーカップに挑戦したんですが、ものすごい大雨の日で初めての芝。戸惑いもあったと思うんだけどゲート内ではいつも以上にガタガタしてる。こっちも久しぶりのJRA騎乗で余裕がなくて、いつもスタートで出す合図を忘れてしまった。立ち遅れて、外からハナに行かれて怯んで、砂をたっぷり被るこれまでにない競馬を強いられた。それでも6着と頑張っていたんですが、よっぽど悔しい思いをしたんでしょう。それは精神面の強化につながった。次の地元戦からはゲートでビクともしないようになって、しかもポーンとものすごく速いスタートを切るようになった。もう僕を頼れないと思ったんでしょうかね(笑)」。

 ゲート扉があくことに集中するようになったベラミロードは以来、快速馬として実績を重ね、牝馬ながら「しもつけさつき賞」「北関東ダービー」「しもつけ菊花賞」を勝って三冠馬に輝いた。交流が一気に進んだ時代ということもあり、視野に入ったのが指定交流。ユニコーンSでは中央馬と互角に闘い、もう北関東には敵がいなくなっていた。

 「彼女の底力を再確認したのは東京盃。初めてのナイター競馬で距離1200mも未経験。だからあくまで挑戦者の気持ちだったし、ハナの速い馬が内枠にいたのでまさか行けるとは思ってなかったが、こっちの方が速かった。コース形態を考えて宇都宮の距離800をイメージして直線ギリギリまで追わず乗った。彼女も動かないんでもう終わっちゃったのかと思って残り300mで放したらまた伸びてくれた。全部僕に任せてくれていたんですね。道中もゆったり回れたんで、まさかあんな速いタイムが出ているとは思いませんでした」。

 この時の1分10秒2は1980 年にカオルダケがマークしたレコードタイムのタイ記録。馬場改修や砂の質の変化から塗り替えるのは至難の業といわれた破格タイムに肩を並べた。そして次に大井参戦したのは東京盃から3戦後のTCK女王盃。ベラミロードは運命のレースを迎えた。

 「距離2000に不安はありました。同型馬がいて追いかけられて、結局3コーナーで相手は失速していくんですが道中厳しいレースになった。もし、あの日もう少し楽な競馬で勝てていたら、彼女の競走馬としての寿命はもっと延びたと思う。直線はフラフラになりながら何度も何度も手前を替えて力を振り絞って走り抜いた。相当つらかったと思います。オーパーペースで彼女の心肺機能や精神面は予想以上のダメージを受けていました」。

 直線では迫り来る的場文男騎手の手綱をクビ差振り切っての優勝。しかしながら、レース後はまるで燃え尽きるかのように戦意を喪失してしまった。「何かのきっかけで立ち直ってくれればと期待したんですが、追えども追えども進まなくなった。女の子ですからもうお母さんになりたかったのかもしれません。ベラミロードは僕の名前を全国に広めてくれた馬。彼女と築いた信頼関係は忘れられません」。戴冠から5戦目には再びTCK女王盃に出走。これがラストランになったが、二度とあの素晴らしいスピードを見せることはなかった。

中川明美 (競馬ブック)

※この原稿は、過去のレーシングプログラムに掲載されたものに、加筆・訂正を加えたものです。