TCKコラム

TCK Column vol.14

赤間清松調教師が語る 東京ダービー6勝

プロフェッショナルな騎乗が生んだ伝説の記録<後編>

なぜ、東京ダービーを6勝もできたのか。
そこには、プロフェッショナルな騎手としての姿勢があった。
父親の死、引退を覚悟した……。
そして、昭和58年最後のダービーに臨む。

勝利を望むストイックな姿勢

赤間はレースには、ライバルである調教師、騎手、馬などライバル陣営の作戦すべての面から研究して臨んでいた。「私はこれまで騎乗したすべての馬を調教した。育成牧場などない時代だから、入厩した1歳の時から、鞍付けからすべて私が調教をする。途中から乗り替わった馬でさえも、その期間の調教、攻め馬はだれにもさせたことはなかった。牧場にも調教師とよく出かけたものだ」。
現在の多くの騎手はそこまではしないし、する必要もないシステムになっている。「すべてのレースは、その前のレースが終わった時点で、すでに始まっている」という赤間のレースに対する真摯で、貪欲なモチベーションがこの男の人生すべてを競馬に捧げるのである。
これほどまでに、競馬に、馬にのめりこみ、そこにストレスはなかったのか。「私は馬と一緒にいればいるほど頭がさえる。ストレスになったことなど一度もない。レースの展開が不思議に読め、レースの前には、幾重にも展開を想定し、自身が勝利するパターンを3とおりほど計算するのである。レースというものはポイントとなる馬がどういったスタートをするかで流れが変わるものだからね」。
そして、騎手として、「東京ダービーで勝つのは夢のまた夢だ」と語る。「私は他場での騎乗は少なかったので、リーディングでは常に5位以内。だから、東京ダービーだけはリーディングトップの佐々木竹見、高橋三郎に負けたくない。なぜ6勝もできたのか。運なのか才能なのか……。それは“執念”だったのかもしれない」。

赤間が東京ダービーを初優勝したのが37歳。そして赤間にとっての円熟期である40歳を迎える。通常、40歳を過ぎたアスリートが活躍するというのは、プロスポーツ界の中でもそれほど多くはない。だが、これは決して偶然の産物ではなかった。
赤間の騎手デビューは昭和32年、22歳のとき。それから引退する昭和58年まで、体重は一貫して51kgを維持していた。レースによっては47kgまで減量をしたことさえあった。
騎手時代には重賞男という異名を取るほど、大舞台になればなるほど強かった。それは強靭な精神と肉体に裏づけされたものであった。
51kgというスリムな体型だけでなく筋力をも維持するために、ランニング、食事制限、スポーツジム、サウナを利用して、自分なりのトレーニングを毎日課していたのだ。
あくまでもストイックに、騎手を極める。それは調整ルームに入っても、馬場をランニングするなど、どこにいっても決して変わるものではなかった。
しかし、年齢とともに訪れる体力の衰えを、敏感にも感じ取らざるえない日が来る。アスリートの宿命でもある。赤間も同じく、「40歳前後で、レース中だけでなくすべての面において若い騎手の体力に、ついていけないことを感じ取った」。体力の低下は騎乗の感覚さえも鈍らせ始めたのである。
そこで、赤間はこれまでのトレーニング量を倍に増やし、体力の衰えを防ぐよう一層厳しいトレーニングを課すのであった。
そしてそれは、この東京ダービー6勝という記録を始め多くの“結果”として、赤間にもたらしたのである。トキワタイヨウで東京ダービーを初優勝した昭和47年が、37歳。それからサンオーイで6勝目を挙げた昭和58年が48歳であった。

記録は破られるためにある

昭和55年、第26回東京ダービーをタカフジミノルで優勝、昨年のソウルシヤトーに続き東京ダービー2連覇を成し遂げ、まさしく騎手として絶頂を極めていた。しかし、この年、赤間は故郷である宮城県に突如帰郷することになった。
父が危篤であると知らせを受けたのである。
病床の父から、「騎手会長なんかやめろ。学のないお前が人の上に立って得意顔してはいけない」と言われる。
「私は宮城から東京に出てきて、父には迷惑も心配もかけていないつもりだった。私は私でやっているつもりでいた。だけど、その父が私を一番心配していてくれて、一番心配させていたんだろうね、一流といわれ、その気になっていた自分が恥ずかしかった」。気持ちが引き締まると同時に、元騎手だった父から、そして師匠から言われてきたことがすべて自分の財産になっているのだと気づく。
赤間の父はこの2日後に亡くなっている。
それから2年後、昭和57年、ホッカイドウ競馬の招待レースで、馬が柵をこすり柵と馬体の間に挟まれたくるぶしを骨折するというアクシデントに見舞われる。北海道でレースをせずに帰京することになってしまったのだ。このとき赤間は、「騎乗中の瞬間的な判断力が鈍っている」ことを、覚悟するのであった。そのアクシデントを境に、赤間の脳裏には引退という文字が消えることはなかった。
翌年、赤間は引退を決意する。そして、騎手として最後の東京ダービーを迎えることとなる。
騎乗馬はサンオーイ(注1)。これは高橋三郎騎手のお手馬であったが、前走の羽田盃から騎乗が回ってきたのだ(後に中央へ移籍する長距離巧者。公営13戦9勝。そのうち4勝はどれも2,000m以上の長距離であった)。「最初にまたがった印象は、並外れたパワーの持ち主だと思った。手綱から伝わるパワーで、手がビリビリしたほどだ」。羽田盃を1番人気にこたえ、クラシック初戦を快勝する。
そして……最強3歳馬を決定する一生に一度の晴れ舞台。だが、赤間にとっては最後の東京ダービーでもある。
サンオーイは、先行するライバルであるセレブレーションを羽田盃に続き、差し切って優勝。引退する年に、東京ダービー6勝という金字塔を打ちたてた瞬間でもあった。
「東京ダービー6勝を含めた2,832勝は、関係者の方々が支えてくれたおかげだ。そして東京ダービー6勝という記録は早く抜いてもらいたい。そんなスター騎手が出てきてほしいと切に願う。競馬界発展のためにも必要なんだ。記録は破られるためにあるものだからね」。
調教師となって、21年。調教師としても多くの勝利と名声を手に入れた赤間。第45回優勝馬オリオンザサンクス以来の勝利を、2003年6月11日、アズマディフィートで第49回東京ダービーに臨む。

※注1:サンオーイは東京王冠では、高橋三郎が騎乗して優勝し、史上4頭目のTCK三冠馬に輝く。さらに東京大賞典も制して、3歳四冠馬となる。

副田 拓人
1968年「みゃー、だぎゃー」と言いながら名古屋に生まれる。
競馬フォーラム、競馬ゴールド、ラジオたんぱなどを経て、現在フリー編集者。