TCKコラム

TCK Column vol.13

赤間清松調教師が語る 東京ダービー6勝

プロフェッショナルな騎乗が生んだ伝説の記録<前編>

東京ダービーという3歳馬には一生に一度の晴れ舞台。
競走馬にとって、すべての進むべき道は東京ダービーへと続いている。
その東京ダービーで6勝という、いまだだれも超えられない大記録を打ち立てた男がいた。多くのドラマが交錯して、生まれた6勝。

悲願の三冠

最多東京ダービー優勝記録、6勝。
昭和47年、第18回東京ダービー、優勝馬トキワタイヨウ。
昭和50年、第21回東京ダービー、優勝馬ゴールデンリボー。
昭和52年、第23回東京ダービー、優勝馬サンコーモンド。
昭和54年、第54回東京ダービー、優勝馬ソウルシヤトー。
昭和55年、第26回東京ダービー、優勝馬タカフジミノル。
昭和58年、第29回東京ダービー、優勝馬サンオーイ。
いまだに打ち破られることのない金字塔を打ち立てた名ジョッキーがいた。
常に名馬の鞍上には、濃い緑に星の勝負服の男がいた。
だれよりも早くゴールを駆け抜け、だれよりもプロフェッショナルに騎手道を貫く男。常に己の肉体を最高の騎乗に近づけるために、ハードなトレーニングを課すその姿は、後に多くの騎手に影響を与えた……。
その名を赤間清松(現調教師)。
騎手として、通算2832勝、羽田盃7勝など多くの重賞制覇。また、中央競馬の騎手招待競走で最高2位の成績を挙げている。名手佐々木竹見、高橋三郎と常に優勝争いをし、一時代を築いた騎乗は不動のものである。
調教師として、525勝(2003年5月22日現在)。3度のNARグランプリ最優秀調教師獲得、昨年も40勝をマークしTCKリーディング2位につけるその卓越した相馬眼と調教理論に裏付けられた調教技術には、多くの重賞を制覇し、ジョージモナーク、ハシルショウグンで4年連続してジャパンカップ出走を果たしている。
名声と多くの勝ち星を手に入れ続ける男。
その中でも、騎手として東京ダービー6勝は、いまだだれも成し遂げられない伝説の記録として残る。
初の東京ダービー勝利を挙げたのが、昭和47年、第18回優勝馬トキワタイヨウであった。馬のケガにより、強い追い切りができない状態であり、慎重に調教を重ねた末の勝利だけに喜びもひとしおだった。前走の羽田盃に続く勝利に、クラシック三冠制覇も夢どころか、「三冠確実」とだれもがその栄光を疑う余地はないほどの強さを誇っていたのである。管理する竹内調教師、吉永厩務員、赤間は初めて手に入れようとする栄光の夢を信じていたのであった。
しかし、悲劇は起こった。三冠目の東京王冠で、不運にも落馬事故に巻き込まれ、つかみかけた栄光は、あっけなくその手の隙間から彼らの意図することなくこぼれ落ちたのである。
その3年後、昭和50年。各スポーツ新聞には、三冠馬が誕生するという見出しが、躍るようになった。その馬とは、フアラモンド産駒ゴールデンリボー。
この年は、フアラモンドの当たり年といわれ、中央では皐月賞、ダービーを逃げ切ったカブラヤオーが二冠制覇を成し遂げていた。
ゴールデンリボーは、悲劇のトキワタイヨウに続く竹内調教師、吉永厩務員、赤間のトリオである。赤間、吉永厩務員の意見を汲み取り、正確な判断を鋭く出す竹内調教師を、赤間は絶対的な信頼を置いていた。プロフェッショナルな3人の男が見る一つの夢を実現するべく、挑み続けるのである。
ゴールデンリボーは、クラシック最初の冠、羽田盃をライバルであるバトルメントと鞍上の高橋三郎を2馬身差離し勝利する。

続く第21回東京ダービー。羽田盃同様に追い込みで、前を行くバトルメントを交わし、1馬身差で優勝。赤間に東京ダービー2勝をもたらしたのである。
残るは、陣営の悲願でもある三冠。東京王冠は、慎重さの中にも今回はいけるという手ごたえをひしひしと感じていたのである。ライバルはこれまで、羽田盃、東京ダービーともに2着のバトルメント。
レースでは、ライバルであるバトルメントをマーク。3コーナーあたりで抜け出したバトルメントを見た赤間は、瞬時にゴールデンリボーを外に持ち出し、4コーナーを大きく回って、直線の大外を選んで追走する。
「並んでは抜けない相手ゆえに、大外のダートが硬い個所を選んだ」という赤間の頭脳プレーで差し切ったのだ。
そして、トキワタイヨウでの無念を晴らし、陣営、自身としても初の三冠という栄光を手に入れた。ゴールデンリボーは昭和42年のヒカルタカイ以来の史上2頭目の三冠馬であった。

亡き師匠に捧げる東京ダービー

「東京ダービーで一番思い出があるのは、昭和52年、第23回優勝馬サンコーモンドだ」。赤間の脳裏を瞬時に、東北から出てきた19歳の赤間を受け入れ、騎手として、競馬人として育ててくれた小暮調教師の姿、思い出が浮かぶ。この東京ダービーの2日前に師匠である小暮調教師が亡くなったのだ。
その第24回東京ダービーは、まるで亡き師匠を悲しむかのような雨であった。
一番人気は佐々木竹見鞍上のタケノオーカン。サンコーモンドは前走の羽田盃の走りで5番人気と人気を落としていた。羽田盃の時、テンで行くという陣営の作戦だったが、3コーナーまではよかったが、直線で止まってしまった。だが、赤間には信じるものがあった。羽田盃で見せた強烈な末脚。この末脚があれば勝てるのだと。
ダービーでは、「お前の好きなように行ってくれ」と竹内調教師から言われている。
現在の東京ダービーは2,000mだが、当時は2,400m。やはりダービーは2,400mに限る。その400mの違いが、馬の未知なる力を引き出すからだ。
「絶対に自信はあった」。
タケノオーカンの出遅れを見て、最後方からの競馬をした。
「レースの流れは理屈ではない。タケノオーカンが出遅れれば、勝てると思った。この馬が出遅れるかどうかでレースの流れが変わる。この馬だけをマークした」。
3~4コーナーで後方から中段、そしてゴール100m手前で、タケノオーカンとトドロキリュウの競り合うすぐ後ろにつけ、ゴール前1mで前に出る。
ハナ差で優勝。2着はヒシアラスカで、鞍上は高橋三郎騎手(現調教師)。故小暮調教師の教え子が、1~2着を占めて、亡き師匠に勝利を捧げた名勝負。竹内調教師と吉永厩務員らで勝ち取った勝利。「まさしく最後にかける捨て身の作戦であった」と……。1番人気のタケノオーカンは5着であった。
このとき勝利インタビューで、赤間はアナウンサーから小暮調教師のことを聞かれると「先生に捧げたい……」と喉を詰まらせ嗚咽をした。顔面からあふれる涙、この声にならないインタビューに、場内から鳴り止むことのない拍手が、大井競馬場を覆う雨空にいつまでも鳴り響いていた。
師弟関係は、今の若い者に言っても理解できないだろうが、まさしく親兄弟以上の関係であった。その師匠が亡くなった直後の東京ダービーだったので、感極まるのはなおさら。「この東京ダービーが、6勝した中で一番、そして人生の中で一番思い出に残る勝利だった。東北から出てきた私を、“赤間”にしてもらったのだから」。

副田 拓人
1968年「みゃー、だぎゃー」と言いながら名古屋に生まれる。
競馬フォーラム、競馬ゴールド、ラジオたんぱなどを経て、現在フリー編集者。