TCKコラム

TCK Column vol.12

東京湾の海風が似合ったハツシバオー

桜の季節もアッという間に過ぎ去り大井競馬場は、東京湾の海風が爽やかな頃となりました。ファン待望の3冠レースの羽田盃(5月14日)東京ダービー(6月11日)ジャパンダートダービー(7月8日)も、もうすぐです。第6回は1978年(昭53)に南関東出身で、史上3頭目の3冠馬に輝いたハツシバオーを取り上げます。怪物といわれたタケシバオー産駒の最高傑作で、ダート戦(大井で全15戦)の強さは無類で際立っておりました。

ハツシバオーが縦横無尽の活躍を見せたのは今から25年前。その年、中央競馬の年度代表馬には有馬記念を制したカネミノブが選出されたが、もし中央・地方一緒の年度代表馬制度があったなら、この年に限っては大井で3冠+1冠(東京大賞典)を勝ったハツシバオーが選ばれていただろう。中央のどの活躍馬よりも強烈に印象に残っているのがハツシバオーであり、その強さは並のものではなかった。2003年春を迎えて地方競馬指定交流競走はいよいよ盛んとなっているが、強力なJRA勢に対して、ハツシバオーのような真のダート王者の出現が求められるところである。

1975年(昭50)3月11日、ハツシバオーは北海道・新冠町朝日の越湖吉春牧場(現、越湖ファーム)で誕生した。父は内国産の人気者だったタケシバオーで、母はフランス産ブランブルーの娘ハツイチコという血統の栗毛である。タケシバオーはチャイナロックの仔で、天皇賞・春をはじめスプリンターズS、朝日杯3歳Sなど、7つの重賞に勝ち、ダートも鬼で東京4歳Sの1,700m1分44秒3のレコードは今も破られていない。ハツイチコは中央で2勝したが、母系は小岩井系のブライアースメードンにつながる良血だ。繁殖入りして初仔がハツシバオーである。

ハツシバオーは当歳時から骨量のある大柄な馬で同期3頭の牡駒ではアローエクスプレスの仔と並ぶ期待馬だった。ケガや病気もせず、元気に育った。カツラギエース(ジャパンC)やクライムカイザー(ダービー)などを発掘した馬商の佐藤傳二氏の見立てで、佐久間有寿氏がその気性と馬格のよさに一目惚れして、400万円で入手した。その栗毛馬が17戦11勝して総収得賞金1億7,743万5000円という当時としては破格の稼ぎ頭となったのである。

ハツシバオーは当歳の12月に大井の大山末治厩舎に預けられ、翌年8月14日にデビューした。山口勲騎手が乗って逃げ切ったが、2、3戦目で2、3着に敗れると4戦目からは宮浦正行騎手に乗り替わった。以降大井での全レースで宮浦が手綱を取った。

4戦目から連勝が続き、羽田盃、東京ダービーまで7連勝。5月15日の3冠第1関門の羽田盃(2,000m、15頭立て)は休み明けで、3ヶ月ぶりだったが、好位を進むと抜群の手応えで2着タイガームサシ(黒潮盃優勝)を2馬身抑えた。宮浦は「調教では気の悪いところがあるがレースでは実に利口な馬。仕掛けると自分でタイミングよく出るし、僕は乗っていただけ」と、1冠の感想を述べた。

6月13日、2冠目の東京ダービー(2,400m、11頭立て)はスタートから逃げ切っての優勝。直線ではタイガームサシを6馬身ちぎる楽勝だった。大井の4万3,000人を超す観衆は、その強さにしびれた。
夏を海風の涼しい大井で過ごしたハツシバオーは夏負けもせず順調だった。秋緒戦の東京盃は古馬との初対決で、直線挟まれる不利もあり、トドロキヒリュウの3着に敗れたが、次の東京記念では初の58kgも何んのその、トドロキヒリュウに雪辱して3歳No1を証明した。

そして迎えた3冠目の東京王冠賞(2,400m)は大本命に恐れをなしたか8頭立て。宮浦は馬を信じ切ってダービー同様逃げた。向正面で2番人気のタイガームサシが逸走するハプニングにスタンドは騒然となったが先頭を走っていたハツシバオーは巻きぞえを食うこともなく、堂々の逃げ切り。ヒカルタカイ(1967年)ゴールデンリボー(1975年)に続く南関東3頭目の3冠馬の栄冠をものにした。

3冠には大きな”おまけ”がついた。12月21日の東京大賞典(3,000m、9頭立て)は過去に2頭の先輩3冠馬が枕を並べて敗れているが、ハツシバオーは古馬相手に1番人気に応えたのである。撹乱戦法に出た古馬たちはハツシバオーの独走を許すまじ、と執拗に食い下がったが、底力でゴール前エドノボルに2馬身半の差をつけ、4冠目を掌中にした。宮浦騎手は「楽なレースではなかったが、逆にこれまでにない力強さをハツシバオーに感じました」といい、大山末治師は「トドロキヒリュウを抜いて賞金トップになった。この上は春の帝王賞に勝って地方史上初の2億円馬と5冠馬を目指す」と夢を描いたが、明け4歳のハツシバオーはご難続きだった。

63kgを課せられた2月26日の金盃では初めての落馬の憂き目に遭い、大目標の4月23日の帝王賞も完調でなく2着に敗れた。逃げるハツマモルを1馬身捕らえ切れなかったのだ。

この後、中央の美浦川高橋英夫厩舎にトレードされてからも調整が狂い、目標の天皇賞挑戦が無理となった。福島競馬場での調整中に打撲症にかかり、浅屈腱炎(せんくっけんえん)を併発し馬場入りも不可能になった。右前脚の患部の不安は解消されず、8ヶ月休養後、なんとか有馬記念に推薦されて岡部幸雄騎手で出走したがグリーンクラスの13着。4コーナーでは4番手にまで上がり、見せ場を作ったのがせめてもの意地であった。

高橋英夫元調教師は「球節のつなぎの立った、難しい爪(左右の爪の角度が少し違う=生産者越湖ファームの越湖和政氏の話)の馬で、それが原因で右前がエビバラ(屈腱炎)になった。私の削蹄ミスで仕上がらなかった。有馬記念1回しか使えなかったが、十分な調教も出来なくてね。ああいう難しい馬は初めてでした。でも能力があったんですね。闘志は父タケシバオー譲りだし、気性もいい馬で、その意味では競走馬の難しさを教えてくれた馬でした」と語っている。

その後、1981年3月5日に静内牧場スタリオンステーションで繋養(種付料50万円)され、1993年まで13年間に232頭に種付けされた。だが、2年目の産駒であるハツシバエース(朝日CC)が目立つくらいで、大半は地方競馬で地味に走っていた仔が多い。1995年2月1日、20歳の時、門別の藤本直弘牧場で用途変更になり、以後は消息不明である。

横尾 一彦
日刊スポーツ時代(98年退社)に編集委員として競馬コラム担当。フリー・ジャーナリスト。
中央競馬会の「優駿」コラムニスト。「サラブレッド・ヒーロー列伝」を103回にわたり長期連載。